まどろみの奥でまたあの声が鳴っている。夢か現実かもおぼつかないままに身を起こすと次第に意識ははっきりとし始め、それと共に声は遠くへと去って行った。
「…」
けだるい体を2,3回ひねりながら嶺亜はベッドから降りた。まだ少しふらつくが頭痛も吐き気もない。父が飲ませてくれたアイスティーが功を奏したようだ。
「今後一切無理は禁物だ。お前を失ったらこの村は終わる」
父はキッチンに立っていた。普段はほとんど家事をすることのない彼がここにいるということはそれなりに心配してくれているということだろう。嶺亜は素直に頷いた。
「あの連中だが…」
フライパンを火にかけ、父が小声で呟く。嶺亜はすぐに栗田たちのことだと察した。
「道祖神への道が土砂崩れで通行止めになっておるから、岩橋のところの使っていない病棟へとりあえず行ってもらった」
「病棟に…」
嶺亜は記憶の糸を手繰る。岩橋家はこの村唯一の病院で、昔は立派な病棟まであった。だが昭和初期までのことで現在は使われていない。取り壊そうにも大変な解体作業だからずっと放置してある。
父を診てもらう時に遠目にしか見たことはないが、かなり荒廃していてとてもではないが泊まりたくなるような建物ではなかった。
「あんなところに泊めるくらいなら、昨日みたいに礼拝堂にいてもらった方が良かったのに」
「そういうわけにもいかん。いつ夜の間に外に出られるか分からんからな。そうなるとお前の命も危ない。そんなことは絶対にさせられん。この老いぼれの命なら喜んで差し出すがな」
「…」
確かに危険ではある。だがその理由を話すわけにもいかないし、ただでさえも好奇心旺盛な連中なのだ。この村が抱えている事実に辿り着いてしまったらと思うと父の判断は正しかったと言わざるを得ない。
「…羽生田の倅は背分神社に無事送ったか?」
「うん。さんざん嫌味言われたけどね。ちゃんと棺桶にも入ったのを確認して出てきたよ」
「そうか…」
焦げ臭い臭いが鼻をつんざく。やはり父に料理は無理なようだ。話している間に焦がしてしまっている。嶺亜は交代し、フライパンを水に浸してサラダを作り始めた。
「あと四日…」
その呟きを父は聞き逃さない。聴力はそう衰えていないようだ。
「あと四日か…それさえ過ぎれば暫くは平穏な日がやってくる」
「四日もいてくれないだろうな…栗ちゃん」
今度は父に聞こえないよう、殆ど無声音で呟いた。
室内の窓という窓は全て閉ざされ、内戸も同様だ。雨音もしないし雲も少なかったからさぞかし鮮やかな星空が散りばめられているだろう。今更ながらに時計を見ると7時半を回ったところだった。
サラダを作り終え、味噌汁を作ろうとするとキン…と耳鳴りが走る。
「…」
嶺亜が顔を歪めたのを父は見逃していなかった。読んでいた本をたたんで
「そろそろか…今、どのあたりだ?」
「…棺桶を破った」
嶺亜は事務的に答える。その返答に父は満足したように頷いた。
「さすがだな…そんなにも正確に『御印』を持つ羽生田の倅の動きを察知できるのはお前以外におるまい。星の動きも何も読む必要もない…不思議な力を持ったお前はこの村にいなくてはならない存在だとこの時期つくづく痛感させられる」
「でも…僕は捨てられてたんでしょ?生まれてすぐにこの教会の前に」
父にそう聞いて嶺亜は育った。物心つく前から自分には本当の両親がいないこと、どこの誰が産んだかも分からないことを。
それを憂う前に、嶺亜は村の「救い主」として崇められた。だから親がいなくても誰も自分をそのことで蔑むこともなかった。それどころか、まるで腫れ物に触れるように慎重な物腰で誰もが嶺亜に接した。
それは『この力』のおかげだ。それがなければ、今頃とっくに…
嶺亜の思いをよそに、父は呟きを続ける。
「南京錠など何の役にもたたんだろうな。暫くは徘徊が続くか…誰も遭遇せずに済むことを祈ろう。特に、あの連中が外に出てないことを…」
「縁起でもないこと言わないで…大丈夫、玄樹がちゃんとしてくれるだろうから…」
「そうだな。さあ嶺亜、今日も早く眠るがいい。明日の朝もまた任務が待っている」
嶺亜は頷く。耳鳴りはまだ続いていた。