「夢日記」いつかの未来。
どのタイミングで見た夢なのか覚えていないのに、内容だけは鮮明に覚えている夢は時折ある。特に筋書きのない、紀行もののような、旅日記のような夢だ。俺は時折そういう夢を見る。実を言うと、明確な筋書きのあるものの方が少ない。どうしたものか、徒歩や乗り物に乗ってあちこちを見て回る、幾つもの景色、都市の景観を目にする夢を覚えていることが多い。考えてみるとそれはたぶん理にかなっている。夢というのが「覚醒時に見聞した記憶のランダム再生」に近いものだという最近の学説に近いものだとすると(…俺は集合無意識やら意識の旅やらといったロマンチックな考え方を信じていない。夢というのは個人の頭のなかだけに生じているものだと思っている…)、意味のある物語を紡ごうとする脳の働きは覚醒を促し、夢の世界に遊ぶ時間を結果として減らしてしまいかねないから、ではないか。積極的に自分が物語に介在するとか、そういうことをすればするほど目覚めは早まってしまう。それを避けるために、俺は無意識のうちに受け身になって「旅行者のようにただ周りを受け入れるような夢の見方」を身につけているのではないか、と思っている。そういう夢のなかで俺は、街中を移動することが多い。地元の町のあちこちの佇まいに似ている街路や一角、ときには明らかに現実と異なるのに「ああここは◯◯の辺りだな」と思っているときもある。このときも、そういう感覚があったのを覚えている。「俺」は20代か、せいぜい30代の男だ。髪は短くしていて、容貌は今の自分と異なる。自転車で、緩やかな下り坂を南下している。今住んでいる自宅の界隈と近くだという感覚はある。しかし、まるで中東の土漠のように荒れ果てた土地だ。植物は草一本に至るまでない。家屋もほぼない。人の気配そのものがほとんどない。一度そういうものがすべて取り払われてしまったような土地だ、と考えた記憶はある。乾燥はしていない。河川もないし水の気配は全くないが、空は薄く均一な雲に覆われている。寒くはない。一面の土塊、それでもかろうじて道はある。ところどころにリサイクル施設だか工場だかはある。活発とは言い難いが機能はしているようだ。どこかに向かうとか仕事の用事がある、という感じではない。ただ淡々と自転車で進んでいく。ふと進むとそれでもいくばくかの樹木や畑のようなものがある一角に行き着く。現実には一級河川があるところ、町外れに大きな国道が通っているところだが、規模の小さい鉄道の始発駅ができている。川は、ない。いつの間にか昼過ぎになっていて、仕事帰りの父親や買い物に向かう母親、学校帰りの少年少女が小ぶりな車両から降り立つ賑やかな一角だ。不思議だと思うのは、通常みる夢ではさほども意識しないその様子を、「現実だったらあの辺だな」といちいち確認していることだ。上に書いたことと矛盾しているが、その時はまるで「自分の意識だけが100年くらい未来に飛んで、その様子を見ている」ように感じられたのだ。なぜそう感じたかといえば、行き交う人に自分の縁者は全くいないのだな、と少し寂しく思ったからでもあるのだ。その一角を離れ、さらに南下する。大きな国道と、その向こうに広がる農村地帯はまたもや土漠に置き換えられている。正確には国道は走っているようだが、コンクリートで完全に覆われたパイプラインのような高架道になっているようだ。ひとまずそれを通り過ぎ、道向こうの広々と、茫漠たる広がりを見せる土地に立ち並ぶ粗末な部落を見て回る。汚くはないが、粗末な建物が立ち並ぶその一角は歓楽街、というにはあまりに寂しい売春宿の集合体だと知れる。一軒一軒にそういう女たちが住んでいる。大阪辺りの某新地にそういうところがあると聞いたのは、この夢を見た後の事だ。この時は現代にもそういうところがあるとは知らなかった。あちらは二階建てになっているようだが、俺の見た夢の中ではどの家(宿)も平屋だった。子供達もいたかもしれない。「この辺りはそんなに治安が良くない」と夢の中の俺は思う。ただ危険そうな男たちの姿はほとんどなかった。女たちもほどほどにサバサバとした物腰でいたように記憶している。一渡りその様子を見て、視点は「国道」に戻る。現実でも幅広の両面二車線で、昼夜を問わず大型トラックが行き交う日本の大動脈だ。その機能は維持されているようで近づくと意外なほどに大きな構造物になっている。なぜかそのすべては覆われている。中の車はずっとトンネルの中を走っているようなものだし、外からは車両の様子は全く見えない。自転車であったはずの俺は、そのパイプが一度地面に降りて信号のある交差点になっている部分に向かう。地上の通常の道路と交差する部分では、当然パイプは途切れている。そこから信号待ちのトラックが見て取れた。そんな交差点があるのはどうやら近郊にある大工場との連絡のためらしく、そうかあの売春婦たちはそこの従業者たちを当て込んであそこにいるのだな、とその時気がつく。未来だな、と感じたのはそこで見たトラックの大きさも含めてのことだ。やや流線型だった気もしなくはないがデザインそのものは鮮明に覚えてはいない、しかしその大きさはキャビン部分だけでも現行車両の倍くらいのサイズがあった。内部は純然たる車両専用路だが、メンテナンス用なのか連絡通路のようなものが併設されている。いつの間にかそこを視察している、借り物ヘルメットに背広男たちの集団に「俺」は紛れ込んでいる。制服警官に敬礼を返されたような記憶もある。そのあたりから俺の脳は覚醒を始めたらしかった。最後に覚えているのはところどころに開いた明り取りの窓から見た、コンクリートの堅牢そうなイメージだ。…もしかしたら「草木も見えず、どことなく衰退や貧困も感じつつ、でも復興の印象がある未来のイメージ」というのは、数年前から続いている「宇宙戦艦ヤマト」リメイクの印象が混じっているかもしれない。あの話の中で地球は、宇宙から降り注ぐ遊星爆弾(人口隕石)のために海も干上がり都市も破壊し尽くされ、すべての土地が赤茶色の荒野へと荒廃しきっている。そこからの復興は「作品では」描写されていないが、あの話にのめり込んだ俺の中にそういうイメージがあったとしても不思議ではないかもしれない。とくにドラマチックでもないこの夢を俺がずっと忘れずにいるのは、「なぜ俺はあの夢に限って『これは未来のこの街だ』などと思い続けたんだろう」と訝る気持ちがずっと残っているからなのだ。あの時感じた疎外感、明らかに南の娼婦町とは別のところに暮らしているはずの、単線電車で行き来していた人々に対して感じた寂寞、自分の無縁を強く自覚するのはこれ以降、今に至るまで経験しない感覚だ。初めて見た時に記録しておかなかったので、俺がいつこの夢を見たのかはもうわからない。もしかするともう何年も前のことかもしれない。それでもこれらの夢で見た視界の断片の幾つかを、ここに書き漏らした部分も含め俺は鮮明に思い出す。視覚情報というより、傍観者でありながら感じていた感情の断片が、それらを俺の記憶として強固なものにしているように思う。つい先日のこと。地主さんの間でなんらかの世代交代(相続や譲渡)があったのだろう、うちからよく見えるとある一角、鎮守の杜にほど近い一角が切り開かれた。それまでは当たり前のように途切れずあった木立がなくなったことに、俺はなんとも言えず寂しさと不安を感じた。樹々が失われることに、俺はなぜだか言い知れぬ不安を感じるようなのだ。その印象が、今またこの夢の記憶を引き出したのでもある。町から木立がなくなることはあるとは思う。だが俺の見た夢では草木一本なく、かつてあったかもしれない建築物もことごとく「失われて」いた。そこに隔絶を感じるのは、いかにも寂しいと思う。寂しさもまた、生きている時に感じる物なのだな、と思わずにはおれないのだ…。