昨日は8月15日、太平洋戦争の終戦記念日だった。 
またこの日はお盆の結びにも近く、結果として「逝きし人を思い、悼む」印象が強い。 

わが国が経験した最も近い戦争であり、近代総力戦であるため前線後方とも甚大な被害を被った太平洋戦争については、戦後73年経った今でも検証と反省が断続的に行われている。昨今は世代交代と各種情報開示の流れもあって、ここ数十年とは異なる視点や分析も行われている。 

そういう中、昨夜NHKでは「ノモンハン事件」についての番組が放映された。冒頭に司馬遼太郎を掲げ、彼が取材を重ねつつ執筆を断念したというこの事件を振り返ろう、という趣旨だった。 

私自身、ノモンハンについての知識はささやかなモノだ。対米開戦前、満州とモンゴルの国境で紛争が本格化し、代理戦争として日本がソ連に大敗した、という感じだった。そして司馬遼太郎についての印象は悪くない。時代小説もだが特に維新以降、近現代史を活写した人だと思う。興味が湧いて見始めた。その中で驚いたことを中心に、見ながらググった事柄など含めて書き出していくことにする。 

司馬は学徒動員で戦車兵としての経験を積んでいる。戦争末期のことであり、また幸か不幸か成績が悪く、結果として後方に配置され生き残った…という経歴の持ち主だ。それが後世の執筆への動機になった、と本人は言っている。負け戦のなか装備の限界に悩む、上官からの命令の理不尽さに憤る、などの下地はあったろう。「複葉機からジェットへ」と言われた第二次大戦の技術進歩の中で、開戦時とほとんど変わらない戦車に乗らざるを得なかった彼の気持ちは、察するだに辛いものがある。 
一方で、当時の若者としての彼の(世間への)不信感がそこにどれくらい混じっていたのか…にも興味はある。 

番組を見ていて印象に残ったポイントは3点。 

1、ソ連軍の大規模で近代的な編成に比べ、日本軍は数でも装備でも大きく劣っていた。当時標準的に歩兵が装備した三八式歩兵銃(ライフル)は明治時代に開発された旧式だった。それら圧倒的劣勢で彼らは戦車や航空機に立ち向かわざるを得なかった。 
(また、それらが動員される状況を事前に察知する機会もあったが全く活かされなかった) 

2、一連の軍事アクションは、「天皇による集中統帥体制」であったにもかかわらず関東軍参謀によって独断で行われ、複数の証言記録(録音多数)によると彼らの中ですら最終的な言質の当事者、責任を負うべきものが不明確なままで事態が進行した。 

3、結果として1万8千余の死傷者という大損害を出した結果に際し、参謀の一部は現場指揮官に(引責として)短銃での自決を強要、下士官兵には箝口令を敷いて隠蔽を図っている。 

番組ではこれらの流れを、こののちの対米開戦、国難といえる大敗戦へと結びつけていた。 



で、番組の趣旨と少し異なる記録と解釈を、ここから蛇足気味に。 

まず、1の補足。確かに当時の三八式は明治38年制式化の古いものだったが…実はこの当時ソ連を含めどの国の歩兵銃も同様だった。採用年代、性能ともほぼ同じで、中には新型を開発している国もあったが、ほとんど配置されていなかった。これはいわゆる戦間期ならではの予算削減も預かっていた。 別に「日本の装備だけ旧式で劣勢」というわけではなかったのだ。
また、「歩兵が火炎瓶で戦車に立ち向かった」というのは(確かに苦肉の策でもあり喧伝ほどの戦果があったか疑問ではあるが)当時の戦車の性能は大戦末期と比べ著しく低く、「成功率は低いが無謀蛮勇カミカゼとまでは言えない」戦法ではあったらしい(ただし、「当時の状況なら」)。 
また、実際はある程度の対戦車砲なども配備されており、少なくとも300両近くのソ連戦車がこれらによって撃破されている。ちなみに日本軍の戦車は30両の損失。実際の配備数の差が5倍以上に及んだとも記録にあることを考えると健闘だと言える。 
そう、90年代のグラスノスチで明らかになったところだと、ソ連軍の損失は、実は人員装備とも日本軍を大きく上回っていたらしい。ただ、動員兵力自体が倍以上であったため、結果として日本軍は押し負けた、ということのようだ。 

司馬遼太郎はノモンハンを「近代的ソ連軍に旧弊劣等装備の帝国陸軍が蹂躙された」と理解していた。これは当時のソ連が戦果の記録を大幅に粉飾していたためでもある。晩年の彼がこれを知る機会があったかどうかはもはやわからないが、少なくともかつての彼をふくめ、ほとんどの日本人にはソ連の発表しか判断材料がなかった。大本営発表に翻弄された記憶の残る当時の人々には、自国有利の資料は信じがたいものと映った可能性もある。なにより、どの国も自軍の損害を割引き、戦果を嵩増ししたがる。「大本営発表」は情報統制の盛んなソ連にもあった、むしろ盛んに行われていただろう。
兵器の性能差自体「当時は」決定的な格差がなく、現場の努力で対応し得たということもあったように思われる。ただ第二次大戦時、兵器を中心とした各国の技術開発力は上記の通り桁違いの進歩を遂げていた。開発能力、生産力、それを支える経済力に至るまで余力に乏しかった我が国はそれらに対抗することが叶わなかった。とくに陸軍の装備は大規模な更新ができないまま終戦を迎えた。 


物量も経済力も水を開けられ、隔絶した技術力に支えられた大兵力に圧倒される中、ろくに進歩しないじり貧の中で健闘せざるを得ない…考えてみれば「宇宙戦艦ヤマト」の冒頭は、この心情を戯画化したものなのだろうな、とふと思った。 



これを踏まえ、3を考える。当時現場指揮官で撤退を指揮したもの、捕虜になった部隊長などに、上層部は「引責のため」として自決を強要したという…これは複数の録音証言が番組内で紹介されていた。ウィキペディアで調べると長谷部大佐、伊置中佐の2名が第23師団長小松原中将に強いられて、という記述がある(小松原自身は自決を意識するも慰留のため果たせず、翌年ガンにより病死)。捕虜となった航空隊の原田少佐、大徳中尉への(軍法会議を通さない忖度じみた)自決勧告は記述されており、このほか私刑的謹慎処遇の中でも自殺者が出ているともされるが、詳細な記述はない。 
反面、限度を超えた資材人員の損耗から無断撤退(潰走か)を図る部隊が続出した、ともウィキペディアには記述がある。敗戦経験の少なかった当時の陸軍には対応策がなく、また敵軍に包囲され陣地内で万策つき現地で自決する指揮官も複数いたと書かれている。ただこれについても(後知恵とはいえ)作戦立案段階での不備を考えると「上(参謀)が悪い」という視点の一助にはなりそうだ。 
これらの事例が悪名高き「戦陣訓」に「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」を付記させるきっかけになった、という番組の考察も的外れではないのではないか、と思える。 

また、「下士官兵への箝口令」も含め隠蔽を図ったという描写については、少なくとも結果としては失敗しており、高度の検閲や新聞報道の制限があったにもかかわらず問い合わせが殺到、事変の翌10月には陸軍により損害が公表されている。ただ、これを開明的と言えるかは甚だ疑問で、むしろ異例の事態と見るべきであるようだ。これ以降の日本人は、現在の我々の常識感覚や市民意識では共有できない「空気」をはらんでいる。それらはここ数年「戦後左翼の捏造」「敗戦世代の自意識過剰」のように言われる向きもあったように感じているが、むしろそういう認識の方が甘いのではないか。 

「お国のため」「陛下のため」と言いつつ言われつつ、命令を下すものがどこかその責任の所在を曖昧にし続けていたなかで、明らかに現代のメンタリティとは異なる常識感覚が人々のなかに根付いていった状況は、 
果たして本当に「当時だけのもの」なのか。 
現代に再現され得ないものなのか。 

 

それは、ずっと問い続けるべきことなのではないか、と思う。



…それらを見た上で、2について。 
「いつ火がついてもおかしくない同盟国の国境紛争」での自然発火が原因、両軍共相手の規模を軽く見た上での状況悪化(ウィキの記述を見ても、現場の楽勝ムード(と反攻への狼狽)は終始散見される)という推移は同様だが、当時のソ連には対独戦を控え二正面作戦を避けたい思惑があった。二正面を避けたかったのは日本も同じではあったが、結果として日本政府の対応は後手に回った。過剰反応とも言えるソ連の軍事侵攻はそういう「国家戦略」もはらんでのものであり、地方軍の独断である関東軍参謀の対応とはそもそも腰の坐りから違っていたのかもしれない。 
 

現代のように即時に情報をやり取りできる時代ではなかった。現場での即応能力も問われただろうとは思う。いちいち中央からの指示を待っていてはという感覚もあったろう。だが、国策で禁止されていた越境攻撃、戦力の逐次投入、停戦命令後の反攻計画準備など暴走と言わざるを得ない行動はあまりに多く、「だれが、どこまでの権限と責任を持っているのか」について「熱狂」だけでなおざりにされていた印象がある。 
その意味で参謀は「現場」に近いとも見えるが、一方で事前の情報収集や戦況分析などについては場当たりの印象を出ないようにも思え、「実際の現場」からは認識が乖離している。 

参謀の中で最も主導的な立場だった辻政信(当時最年少の少佐だった)は後日、「反攻計画で勝てるはずだったのに中央に止められた、無念である」と言葉を残している。この言葉が正しかったかどうかは、今となってはわからない。ただ、その作戦が成功した(したとして、だが)のちに「大日本帝国としての対外政策」がどうなったか、そこまでを考えての認識があったのか…それは問われるべきところではないか。 
負けていい戦いはないだろう、戦友を失って退くのは無念だろう。だが命じられたらそれもせねばならないのが「国に仕える」ということでもあるのではないか。 

 

 

 

この「事件」は、軍事的アクションとしての敗北と別に、そういう組織としての歪みを露呈し、正せなかったことへの視点はあるべきだろうと思う。集団の中で小さな「仲間」を作り、それを守ることに窮し、上も下も「仲間ではないから利用する」として憚らない態度。そういう感覚は、多分今でも、我々の心中のどこかにひっそりと根付いている。それは、いつも芽を出す機会をうかがっているのだ、と。それを忘れるな、と。


ノモンハンは、多分、今も終わっていない。

最後に。
司馬は当時歩兵26連隊長で引責左遷を強いられた須見新一郎氏(当時大佐)と親交を持ち、自身の「戦車兵」としての経歴もあってノモンハンを題材にする構想を得たらしい。だが後日関係が悪化し、取材を断念。ノモンハンに通じる帝国陸軍の組織的欠陥や戦中の「空気」への意見もあったかもしれないが、執筆を取りやめた事情は、それらの事情も酌むべきなのかもしれない。また、「現場にいた」という自負もある司馬だが、逆に言えば彼の立場は「実践に参加することなく終戦によって任を終えた動員学徒」に過ぎなかった、とも言える。彼の記述については(戦車そのものの開発史や評価を含め)複数の事例について誤解、勘違いもあることが後年指摘されている。… 案外その辺の感覚のギャップが、須見氏と司馬との諍いの原因になったのではないか。

全てを誤りとは言い難いが、彼の認識を完全な底本とするのは控えるのが賢明かもしれない。それは、「彼にとっての戦争」でもあったのだな、と今は思う。