【手前味噌で恐縮ですが】
まずは私の数十年前の昔話におつきあいください。
中高生当時の私は、最も数学の成績が良い生徒でした。
但し、自分自身の中ではだからといって一番数学が得意だとか好きだとかいった感覚はなく
基本的に数学と言えば、与えられた手順に従って、一つひとつ順を追って道筋をたどっていけば
他の教科とは違って紛れがなく100%正答に辿り着くことができるため成績が良かっただけで
私が理系のカリキュラムに進むか、それとも文系のカリキュラムに進むかの選択をするにあたっては
当然のように自分が最も数学の“得点”が最も高いから、と言ったことはまったく頭になく
理系=つまり理科(化学とか物理とか)に生涯を通じて関わっていこうとする人、
文系=つまり社会科(歴史とか政治経済とか)に生涯を通じて関わっていこうとする人、
当然本質的にこういった分類をするのが適当で、
その上で選択をすべきだと思ってまったく疑いませんでしたから
理科系統に残念ながらあまり興味がなく、逆にどちらかといえば
ひとはなぜこういった場面でこういった行動をするのだろうか、とか
ここでこういった行動をしたことがどういった結果をもたらしていったのかとか、
そういったひとびとが様々な、そして数学にはない不確定要素満載の環境の中で
自分の理論や持論、感覚に基づいて様々に選択し、行動する中で
様々に結果として紡がれていく“歴史”というものを学んでいくことが非常に大好きで
当然当時のカリキュラムでいえば世界史や日本史が大の得意分野でしたから
何の迷いもなく、文系へ進むという選択をしたのでした。
【“理系=数学に秀でた人”という慣習的な現実】
ところが、現実-つまり周りの方たちの一般的な常識-はまったく180度異なるものでした。
おそらく今でも大部分、この常識は続いていることと思いますが
現実問題として、数学の成績が良い人=理系に進む人、であり
数学の成績がそこまで良くなく、どちらかといえば苦手にしている人=文系に進む人、
こういった進路選択上の基準が社会通念上一般的とされており
もちろん、私についても周りのクラスメイト、先生、そして両親さえも
当然理系に進むものだろうと疑わず、そういった期待をしていたのでしょう、
私がさも当然のように文系に進む、と言った時の皆さまの驚きようは
今でもまざまざと、脳裏にハッキリと焼きつくほどに覚えております。
当時、特に凄まじかったのは両親の反対で
ちょうど中高生、文系理系の進路選択をする頃と言えば思春期とも重なりますから
いったいこの子は何を考えているのだろう、もしかしてただ単純に反抗したいだけなのだろうか、などと
いろいろと(私から見れば)あらぬ疑いをそれこそ何個も何個もかけられながら
最終的に学校へ進路選択の希望を伝える用紙を提出する際には
それこそまったく私のある意味単純すぎるほどに単純なアタマの中は理解してもらえず、
また私も何故そういった一般的な慣習的常識が頑として存在しているのかまったく理解できないまま
議論が平行線をたどったまま非常に無意味な押し問答に夜通し中つきあわされる羽目となり
とうとう一睡もすることなく、朝の4時ごろにこちらから一方的にその家族会議を打ちきり
自分の意志を貫ききり、文系への進路選択を強引に貫ききったのは
今となればもはやとても懐かしい、素晴らしいひとつの思い出です。
【数十年後、当時を振り返って】
さて、その後一貫して文系への進路選択を貫き続け、進学していき
そして社会に出て就職し働いていきながら様々な経験を経ていった後に
今、私が当時を振り返って思うことは2つ。
一つ目、やはり私があの時自分の意志を貫き文系への進路選択をしたことは
その後私が自分の人生を非常に楽しく、自分の意志でもって決断し続けていく上での
基礎となる非常に重要な一里塚であり、つまり大正解だったということ。
そして二つ目、恐らく今現在でもその傾向は色濃く残っていることと思いますが
特に当時の日本社会において、数学に秀でた人間は理系へと進んでいくという慣習的一般常識には
それはそれなりに、主に経済的な要素からの大きな理由があったのだなあ、ということ。
一つ目については後で述べるとして、まずは二つ目について詳しく観ていきましょう。
【選択の基準は大学入学試験、そしてそこから繋がるその後の安定した高水準の経済的生活】
結論から先に言ってしまえば、恐らく今でもそうだろうと思いますが
理系に進み、ある程度活躍の分野を限っていった上でその分野で数多くの先達たちの労作に囲まれ
彼らの辿ってきた長い長い道筋を従順に、ひたすらなぞって追いかけていきながら
その上で数十年の下積みと言っていい長い長い期間を経て少しずつ階段を上り
その分野や“業界”特有の慣習や繋がりなどを一片の疑念も想起させないほど身体の髄までしみこませていった上で
ようやくその上で地位や発言権、そして自らの考えを発表する機会を得ていくというキャリア構築をすることが
日本社会において、経済的にも、そして社会的地位構築の上でも
恐らく今でもほとんど変わらずに最も安定して高い水準を保つことができる選択である、ということです。
もちろん、現実の理系・文系選択の際には
将来の経済的に高水準で安定した生活を得るために数学を重点的に学び理系へ、といった
長い人生プランを観て決断をすることよりも
多くはそこまで深く、遠く観ることなく
まずは眼の前の大問題である大学進学、それもどれだけ偏差値の高い大学へ進学するか、
そしてそのために文系・理系どちらを選択するかといった“現実的な”要素が最も強いことと思いますが
それも結局は将来少しでも安定した、そして少しでも高水準の経済生活を送るために
とにかく少しでも偏差値の高い大学の入学試験をクリアしていくことが最優先・最重要課題なわけですから
どちらにせよ同じ理由からであることには変わりないと言えます。
【何故一般的な“文系”の日本社会では数学的素養はそこまで必要とされないのか】
さて、となると疑問として挙がってくるのは
“なぜ文系には数学的素養がそこまで必要とされないのか?”
もっと言うならば
“大学入学試験が、そしてその背後にある日本“経済”社会が優先的に必要とする人材とはどんな人間か?”
といった問いになりますね。
結論から先に述べてしまいますと
数学を学ぶ中で日本社会が最も身につけてほしい素養は
“決められた手順を踏んで、その道筋を疑わず、外れることなく従順に、忍耐強く進み続けるスキル”であり
逆に最も日本社会が身につけてほしくない素養は、
もちろんそれを明確に把握し、理解し導いていく“個人”や“組織”はなく
それこそ日本社会御得意の、いつの間にかなんとなくできあがっていった、
主体の曖昧模糊とした“雰囲気”であり“流れ”であるからこそ尚のこと厄介なのですが
“これまでの常識や慣習、そして力学にとらわれることなく論理的道筋にのっとって
一から、全体を見渡して自ら道筋を構築し、その当然の帰結として既存の分野や業界の枠組みを破り
新たな枠組みを、分野を構築していくスキル”だということ。
有り体に言ってしまえば、文系に進んだ人間で大半が構成される日本経済では
基本的に“余計な”“知恵”や考え方の枠組みなどは邪魔なだけでまったくといっていいほど必要なく
ただただ“私は数学のできないバカですから”とあっけらかんと笑い飛ばしながら
まずはそのあり余る体力でもって、従順にその業界特有の枠組みやしきたり、そして力学を
ひとつひとつ先輩たちに殴り飛ばされながら学んでいくことが求められ
かたや数学を得意とする“優秀な”人材については
“余計な”論理的思考でこれまで長年にわたり築き上げてきた社会・業界特有の慣習やルール、そして力学を壊されることのないように
ある特定の狭い専門的な分野に放り込み、そこで圧倒的な過去の先達の労作を次々と与え圧倒していくことで
とにかく“出る杭”が現れないよう未然に鼻っ柱を折ってしまい
年功序列が崩れないよう当分の間、牙を抜いておとなしくしておいてもらおうとします。
・・・一昔前の話のように感じますか?
そうですね、表面上は日本社会は変わらなければならないと言い続け
様々な挑戦がなされ、試行錯誤がなされていっているように見えます。
いわゆる“ゆとり教育”もその一環で始まったものと言えますね。
ただ、企業が求める人材はもはや大きく変わっている、などと言われ
実際表面上はいろいろといじることができ、また大きく変わったように見せることができますが
根本的に大学進学に際し未だに厳格な選抜試験を行い、
特に私立大学を中心に文系は未だに数学のウェイトが低いままであると共に
何より国公立大学を中心に、未だに“公平で”“厳格な”選抜を施すために
(未だにTVなどでもてはやされるものと同じ種類の)“クイズ”のような
マークシート試験を第一段階として課しているという現実は疑いもなくあり
この誤解を恐れずにわかりやすく例えて言うならば古代中国の“科挙”のような
主に従順で優秀な“官僚”を見出すことに秀でている選抜試験制度が続く限りは
日本社会が暗に求めるのは、つまり日本社会に数多く供給されるのは
口先では、裏では、もう時代錯誤も甚だしい、馬鹿らしいと悪口を言い鼻で嘲笑しながらも
結局はひたすら従順に、盲目的に過去の先達たちの“華麗な”、だけれども
小手先の、その狭い分野だけに抜群の効果を発揮するテクニックに(嫌々かもしれませんが)従順に従い続け
自分自身で深く咀嚼し、自分なりに再構成された“知恵”となる前の
断片的な“知識”をアタマの中に詰め込むことが得意なだけの
いわゆる“自分で考えない、結局は先達が手とり足とり叱りつけながら指導せざるを得ない、
もちろんだからといって自分自身で体系的に、継続的に忍耐強く誇りと責任をもって
自分の信じる道を自信を持ってまわりの雑音に揺らぐことなく進んでいけるわけでもない”、
すべてを周りが環境が悪い、偉い人が“お上が”悪いと文句を垂れ流し続けながら
結局は自分自身で何物をも変えようと行動し続けることもない人材だらけとなるのは
ある意味必然だと言えるでしょう。
【現実を踏まえた上で、それでも】
さて、日本社会の“将来”の話は長い長い道のりになりますし
何よりここでの主筋の論旨からは外れますので一旦横に置くとして、
若人“個人”の将来に向けてのひとつの重要な選択としての視点から見ると
こういった過去から連綿と続く日本社会の“現実”を踏まえますと
やはり経済的安定を、そして高水準の生活を第一に望むならば
やはり現在でも変わることなく、その常識・慣習に従い
数学の成績が秀でている若者はまず間違いなく理系へと進むのが正解だと言えます。
私も、今になってみれば両親が何を考えていたのか、教師やクラスメイトが
何故私は当然理系に進むものと確信していたかが痛いほど理解できます。
ただ、ここからが上の“一つ目”の結論についての詳細にもなっていきますが
それでも、それでも、今でも私はあの時文系を選択して正解だったと、
そのことで今日ここまでの人生、そして今現在でもそうですが
非常に楽しく素晴らしいものになったと胸を張って言うことができます。
もちろん、理系を選択した場合に予測される安定した、高水準の経済的生活は望むべくもなく
また常に業界の長年培ってきた常識を、力学を、断りもなく土足で平気で踏みにじるわけですから
まああちらこちらでぶつかり、呆れられ、奇異の目で見られ続け
数多くの反感を受け続け、心ない罵詈雑言の数々を受け続けながらも
それでもなんとかここまで自分の眼で観続け、自分の脚で歩み続け、
その上で自分のアタマの中で仮説を編み出し続け、そして自分の手でそれを
客観的なデータなどをもとに、論理的道筋をたてて順々に立証していき続け
多少大風呂敷気味に言うならば
“その社会の、組織の、個人の、行動の、結果の、本質にあるものは何なのか”を
鋭く射ぬいていこうと探求し続けたことは最高の楽しみであり続けたことだけは確かで
それこそが私のここまでの人生を、そして恐らく今後の人生をも
非常に豊かに、実りある幸福なものにしてくれたということは間違いありません。
【数学的素養とは確固たる客観的・論理的思考能力を養うこと】
ということで、私は数学の成績が他の教科よりいいのだけれども
それでも社会科方面-文学でも、哲学でも、政治でも、経済でも歴史でも-に非常に大きな興味関心があり
まわりの反対があったとしてもそれでも文系への進学を選択したいという若者を
諸手を挙げて、大いに応援したいと思う次第です。
もちろん、ここまでも何度も述べました通り
今の日本社会の“現実”を冷静に踏まえるならば
理系に進んだ場合に得られるであろう安定した高水準の経済的生活は
多少なりとも犠牲にする覚悟は必要ですし
また慣習に従わない=つまりは従順さに欠ける中で“無駄に”客観的・論理的思考能力が養われていますから
既存の枠組みの中で、“カメレオン的に”適応できずに人一倍苦労するだろうことは予め覚悟する必要があると思ってください。
それでも、自分の人生をまわりの世間的に見て成功したか失敗したかなどにとらわれることなく
自分で納得した通りに、自分で主体的に描き続けながら幸福に楽しく過ごしていきたいと思うのであれば
是非是非、数学的素養-従順さではなくそれを超えた揺るがない確固たる自分自身の拠りどころ、ものさしとしての客観的・論理的思考能力-を備えた
数多くの優秀な人材がどんどんと自分の意志と判断で文系へと進み
その人生を自ら描き、切り開いていきながら楽しい、幸福な人生を歩んでいくと共に
そういった人材が数多く社会の中で活躍していく中で、少しずつ少しずつ
確固たる業界の壁が崩れていき、新しく深い知見に富んだ新しい分野が大きく育っていき
私の愛してやまない、この日本社会が少しずつ少しずつ、流動化し転がり始めていくとともに
これまで最高の評価をされ続けてきた“科挙的”な“従順な”いわゆる官僚的“エリート”たちではなく
社会を前に進め、新たに開拓していく力強い、個人として自立した
若く優秀な、才能あふれる真の意味の“elite”たちが数多く誕生し、
そして何より社会の最前線で活き活きと活躍し続けることを願って止みません。
【そして、sabermetricsにも数多くの数学的素養をもった優秀な若人を】
最後に、このエントリーを上梓しようと思い立った直接のきっかけでもありますが
是非是非野球やbaseballに興味関心のある意欲的な、優秀な若者たちには
自らの体験的感覚や、そこで長年を過ごす間にいつの間にか、知らぬ間に当然のものとして刷り込まれ続けた
いわゆる“野球業界”の慣習や常識だけにどっぷりととらわれ続けるのではなく
数多く統計学に、それもその本質である客観的・論理的思考方法に基づいて
様々に自分なりに理論を構築し、堂々と持論を展開し続けていって欲しいと願っております。
もちろん、現状を見ればわかるように
この分野においてもやはり“野球業界”の伝統ある、権威ある
数多くの先達たちの体験に基づく強固な常識・慣習・セオリーは非常に堅牢なもので
心理学的なアプローチ、組織論的アプローチなどと同じように
基本的には統計学的アプローチであるsabermetricsもその前ではなかなか評価はされませんし
まずは鼻で笑われたり、意識的に、また無意識のうちに無視され続けたり
更には少し声が大きくなってきたな、と嫌われれば
容赦なく心ない、いわれのない非難を、そして誹謗中傷を数多く受け続けるものです。
そういった様々な軋轢や試行錯誤の数々を覚悟しながらも
それでも尚、ここに野球=baseballというゲームの本質を見出し、その魅力にとりつかれて
継続して、いわば“自分個人の”ライフワークの一つとして
“楽しみ続けることができる”と判断するのであれば
是非是非数多くの数学的素養をもった、それでいて個人や組織の行動の動機や結果に大きな興味のある
優秀な“文系”人間にどんどん参加していってほしいと願っております。
最後になりましたが、そして文中にも一度述べましたので
繰り返しになり甚だ恐縮ではありますが
このエントリーを私の愛してやまない野球=baseballという競技に、
そして同じく愛してやまない日本社会に捧げるものとさせていただき
ここで筆をおきたいと思います。
【終わり】