芝居は私にとって、生きるということである。
芝居そのものが生であると思うし、芝居にアプローチする人間、というか私に、生きている実感が湧くので。
仮に役者をやめる時が来たとしても、それはそれでいいのかもしれない。
生き方を教えてくれるから。だからそばで、芝居をしている誰かが息をしていると、私もそのエネルギーを受け取って生き延びることはできる。
とはいえ、そんな人がそばにいたら、私も触発されて芝居せずにはいられないのだろうけど。
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目が覚めたとき、すぐそばで誰かが自分を抱きしめてくれているということが嬉しい。
相手に対して何か役に立ちたいとか、影響を及ぼしたいとか、そういう本人の気持ちとは関係なく、ただそばにいてくれるだけで幸福を感じる。
親の膝を離れてから長いこと探し求めていた、「あたたかさ」がそこにはある。
ずっと独りであったので。
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今とても満たされているけれども、それが「真子」にとってはそれが恐ろしくもある。
愛に飢えて、他人と繋がりたくて。舞台の上にある「なにか」に焦がれて芝居をしていたので。とても満たされている今、すこし麻痺している。
けれど過去の記事を読んでいて、奮い立つ。ほだされないよ。自己満足だろうが、巨匠病だろうが中二病だろうが、関係ない。
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幸福は実体を持たない。この世は苦海だから。星座のように、見る人の受け取る心次第で、幸福も不幸も、変わるのだ。
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誰かが帰って来るのを、子供と一緒に待つ人生もいい。
だけど私は芝居から離れることもできない。その間はまた、独りになる。心地よい孤独。
大切な人は増えていくけれども、いつでも心に孤独を飼って生きているのだ。私はいつだってアウトサイダーだから。ほだされてはいけない。
だけど、帰る場所はあるのだ、きっと。一人ではないからこそ孤独を愛せるのだ。これが昔との違い。
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たぶんきっと、「あたたかさ」と「真実」をごっちゃにしていたのかもしれない。
それらは類似しているけれども、違うのだ。どちらも、芝居を通して得られるけれども。
「あたたかさ」には確かに嘘がなくて。だから「真実」と取り違えそうになっていた。
「あたたかさ」が欲しいだけなら、芝居などを生業にしないといけない必要はない。仲間内で楽しくやっていればそれでいいのだ。
だけどそうじゃない。私は狂気の中で生きたいのだ。舞台から放たれる狂気のなかに、「真実」はある。見る人に、その狂気を伝えないといけない。芝居は私の自慰ではないのだ、もはや
そのことに気が付けたら、怖くない。
大切な人と幸せを育みつつも、どこかで何かに飢え続ける「真子」が、狂気を孕んで吠え続けるのだ。あとは切り替えだ。
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もう怖くない。