コティの箱庭 -2ページ目

コティの箱庭

ここはアジール。時空を超えて、誰かの心を揺さぶる言葉の力を。それはまるでジャムのようにどこにでもある、ちょっとした必需品。現実世界での影の部分を、煮詰めて甘く味付けします。まあ、一緒に珈琲でも。



芝居は私にとって、生きるということである。


芝居そのものが生であると思うし、芝居にアプローチする人間、というか私に、生きている実感が湧くので。


仮に役者をやめる時が来たとしても、それはそれでいいのかもしれない。


生き方を教えてくれるから。だからそばで、芝居をしている誰かが息をしていると、私もそのエネルギーを受け取って生き延びることはできる。


とはいえ、そんな人がそばにいたら、私も触発されて芝居せずにはいられないのだろうけど。


 



目が覚めたとき、すぐそばで誰かが自分を抱きしめてくれているということが嬉しい。


相手に対して何か役に立ちたいとか、影響を及ぼしたいとか、そういう本人の気持ちとは関係なく、ただそばにいてくれるだけで幸福を感じる。


親の膝を離れてから長いこと探し求めていた、「あたたかさ」がそこにはある。


ずっと独りであったので。



今とても満たされているけれども、それが「真子」にとってはそれが恐ろしくもある。


愛に飢えて、他人と繋がりたくて。舞台の上にある「なにか」に焦がれて芝居をしていたので。とても満たされている今、すこし麻痺している。


けれど過去の記事を読んでいて、奮い立つ。ほだされないよ。自己満足だろうが、巨匠病だろうが中二病だろうが、関係ない。


 



幸福は実体を持たない。この世は苦海だから。星座のように、見る人の受け取る心次第で、幸福も不幸も、変わるのだ。



誰かが帰って来るのを、子供と一緒に待つ人生もいい。


だけど私は芝居から離れることもできない。その間はまた、独りになる。心地よい孤独。


大切な人は増えていくけれども、いつでも心に孤独を飼って生きているのだ。私はいつだってアウトサイダーだから。ほだされてはいけない。


だけど、帰る場所はあるのだ、きっと。一人ではないからこそ孤独を愛せるのだ。これが昔との違い。



たぶんきっと、「あたたかさ」と「真実」をごっちゃにしていたのかもしれない。


それらは類似しているけれども、違うのだ。どちらも、芝居を通して得られるけれども。


「あたたかさ」には確かに嘘がなくて。だから「真実」と取り違えそうになっていた。


「あたたかさ」が欲しいだけなら、芝居などを生業にしないといけない必要はない。仲間内で楽しくやっていればそれでいいのだ。


だけどそうじゃない。私は狂気の中で生きたいのだ。舞台から放たれる狂気のなかに、「真実」はある。見る人に、その狂気を伝えないといけない。芝居は私の自慰ではないのだ、もはや


そのことに気が付けたら、怖くない。


大切な人と幸せを育みつつも、どこかで何かに飢え続ける「真子」が、狂気を孕んで吠え続けるのだ。あとは切り替えだ。


 



 


もう怖くない。



彼らと出会った当初のこと。
その出会いは私にとって確かに衝撃であったし、ある地点からの出発点となった。彼らを心から愛していた。
様々な問題を経て、すっかり彼ら離れした私だけれど。

ある記事を見てハッとした。

あの人は嘘をつかないのだ。自分の掲げた世界を創ろうと、着実に動き出している、
実際のところ、どうなのか分からない。問題は山積みだろうし、同じ記事を見ても同じことを感じる人が多いとは思えない。むしろ今の状況では不信感ばかりだろう。それでも私は直感で感じた。

ああ、近づいている。真実の地平に。

形は変われども、軸は偽りないのだと確信した。腐ったのだろうかと。疑念があったけれど。
先生と同じだ。
この人は嘘をつかない。


これからも、仲良くして頂けたらいいなあ。
たとえこの先こじれても、ただまっすぐ、あの人の紡ぐ物語だけは信じていたい。
この世界は欺瞞だらけだけど、物語だけは、真実だから。

期待されていることに誇りを持ちつつ、驕らず真摯に。
白鳥は水面下で必死に足を動かす。役者とは、必死さを余裕に見せるプロだ。
努力が才能に勝る、とはそういうことなのでは?
謙虚にしたたかに貪欲に。
「能動的に生きる」、やってやろうじゃないか!

この感情こそが真実である


愛した人をどうなりたいなどと思わない、ただ、
ただ救われますようにと
己れの身など投げ出せる

そう心から思える
清く儚く美しく尊いこころ。

薄汚れた毎日の中でふと生まれ、そしてまた忘れ去るのだ。
それでいい。私は人に依存すると腐る。
己れは舞台の上の神に心を捧げ、身を捧げるのだから
神に祈りを捧げることが、いつまでつづけられるだろうか。

だけどこの瞬間、忘れない
今だけは覚えておこう


 
苦しみ悶えているあの人の、歯軋りが聞こえる
貴方を守りたい
愛している。

救いあれ。
愛してはいけない人を愛したとき

近づきすぎても辛い
遠すぎても狂おしい
手に入れたいなどと思わない。
ただ、憧れることそのものは罪なのか?

この思いは生かさず殺さず
この激情だけを切り取って、あとは葬る
記憶のバックアップを、舞台上の色に変換するのだ
全ては、演舞のために

先生から離れるときに「誓い」を立てた
私がこの人を手に入れられなかったのは、根拠があると。そうすることで、自分が身を引くことを正当化したかった。
そうでなくては納得が行かなかった。こんなに愛しているのに、なぜ手に入らない?
この問いから、生涯目を逸らすために。

その時から、私は舞台のうえにいる「まだ見ぬ向こう側」の「君」に焦がれるようになった
己れは「彼」の為に生きると。



あの時立てた「誓い」を破った時、私は自分の首を絞めることとなるだろう。
戒めを忘れたとき、私は破滅する。



私はまだ死にたくない。
まだ見ぬ向こう側へ行くのだ。そこには真実がある。
この世界で唯一の誠が。


愛している。
このブログは、物語や詩や、美しい言葉で埋め尽くそうと思っています。
だけど勘違いしてほしくない。
ここに書く言葉は決して現実逃避でも、綺麗ごとでもない。



例えば何か辛いこと、悲しいことがあって、愚痴を言いたくなったことがあったとして。
思ったことを配慮せずその場で吐き出すのは、後々に自分の中で解決出来る問題だとしても、聞く側に負担をかける。そして短絡的なことを口に出すと、短絡的なイメージを相手に与えてしまい、その問題を自分の中で既に解決できているのとは裏腹に、相手に心配をかけたり、自分の信用を損なうように思う。
現段階での私の発言や作品は、色々な思いが混沌としていて、ただのゲロのような状態だと思う。イチゴを潰して砂糖を投げ込んだ煮汁を煮詰めれば、使いやすくて誰もが買っていくジャムになる。それと同じかな。
煮詰めて、美味しいジャムを作りたいな。全国から取り寄せの注文がくるような。
そんな言葉を、作品を発信したい。
童話とか詩とか、子供に聞かせたりするような言葉は決して綺麗事などではなく、汚い世界を生き抜いた大人が、フィルターと煮詰める作業をした上でできたジャムだと思う。
そのジャムによって活力をつけ、日常に立ち向かえるようになる、そんなジャムにしたい
製法を変えれば様々な味のものになり、顧客も増えるだろう。
どれも私がこだわって作った料理のようなもので、どの風味が正しいとかではない。創作もきっとそうなんだろう。
相手の好みに合わせることもあれば、自分のやりたいようにやる。

ここは、そんなことをぼんやりと考える管理人cottiの、美しい言葉を並べて遊ぶ秘密基地です。単なる現実逃避ではないし、綺麗ごとだけで出来てなど、決してない。「光の裏には影がある」のだもの。

まあゆっくり、珈琲でも。