プロ野球<舌口球>670回 | プロ野球<舌口球>

プロ野球<舌口球>670回

へえ~、そうだったのか

 大リーグ記録の56試合連続安打のジョー・ディマジオが、あのマリリン・モンローと結婚しなかったら、彼女の来日は永久になかったかもしれない。ハネムーンを兼ね、この2人が日本にやってきたのは1954年(昭和29)2月のことだった。すでにディマジオは現役引退していたが、セ・リーグがキャンプ中の巡回コーチとして招いたものだが、まあとにかく、モンローが行く所、どこも人、人、人だったという。だから、こんなことも。

「ホテルに3泊なさったと思いますが、その間、マスコミの人たちが大変でした。モンローさんがベランダに出て手を振っていたりしたら、写真を撮ろうとレンガに這い上がって、2階のモンローさんのお部屋に近づこうとする人が何人もいました。中には池に落っこっちゃった人もいたくらいで、とにかく大騒ぎでした。でも、奥様のモンローさんが大騒ぎされればされるほど、ご主人のディマジオさんは機嫌を悪くされていたようで、一日中ものもいわずベッドにもぐり込んでいるということもありました。モンローさんは、そんなご主人をとても気にしていらっしゃるようでした。」

 こう語るのは『帝国ホテルの昭和史』(主婦と生活社)の著者で、当時、同ホテルの客室係りをしていた竹谷年子さんである。そして竹谷さんは、モンローについてこう記している。

「お顔も美しいけれど肌もとてもキレイな方で、私が用事があって伺ったとき、ちょうどお風呂から出ていらしたところで、あまりにおキレイなので〝お美しい〟と私が言ったら〝あなたの黒髪の方がおキレイよ〟っておっしゃるのです。それがとてもあたたかくてやさしい感じでした。どなたもモンローさんは、映画で見るのと実際の人柄は違うと言っていましたが、お会いしてみて本当にそうでした。よそから聞いた印象よりも、はるかにやさしい、気のこまやかな、そして寂しそうに見える方でした。小さい頃からいろいろ苦労なさったようですが、だから他人の気持ちがよくわかるという、見ていてそんな感じがありました」

 冒頭の写真はピンボケで申し訳ないのだが、モンローが竹谷さんにプレゼントしたサイン入り写真=竹谷さんの著書からだが、そのマリリン・モンローの肢体を心ゆくまでお触りして楽しんだ唯一の日本人がいるのだ。その幸せな御仁は「指圧の心は母心」で知られる浪越徳治郎氏である。

「何せ世界的美女から頼まれたのですから、私はブッ飛んで行きました。帝国ホテル2階の205号室。忘れられない思い出の部屋となりましたが、そこでモンローさんは苦しんでおられました。紫のガウンを着てベッドにおられたんですが、ガウンの上からでは胃けいれんなのか胆石痛なのか、見分けるのが難しいので、私はガウンをはがしたんです。すると、モンローさんは一糸まとわぬうまれたままの姿です。モンロー・ウォークのお尻も鑑賞するヒマはないので、さっそく左と右を押し比べましたが、10分くらいで痛みはとれましたが、そのままお別れするのはもったいない気がしまして(笑)、それから胃けいれんに関係なく、腰の辺からお尻、太ももまで押さえました。いや、そりゃあ、なんともいえぬ感触でした。肌がすべすべしていましてね、法悦みたいな感じがしましたねえ。これを機に世界中に浪越の名が売れたんです(笑)」

 いいかげんにせい、スケベ心でマリリン・モンローに過剰サービスとは、と怒ってもしょうがないのだが、彼女が自宅の部屋で死体となって発見されたのは、来日から8年後の1962年。1995年にはアメリカで彼女の切手が発行され爆発的に売れたという。実は私、その切手1シート持っているのだが、どこに仕舞ったのか見当がつかないので、みなさんに写真でお見せできないのは残念だ。

 ところで、dティマジオ・モンロー夫妻と一緒に来日したのはレフティ・オドールだった。彼はディマジオがマイナー当時の監督で、いわば育ての親。そういう関係があったからこそこの夫婦の来日が実現したというわけだ。オドールは巨人のニックネーム「ジャイアンツ」の名付け親としても知られるが、日本のプロ野球草創期から尽力し、2002年に日本の野球殿堂入りを果たした。