父親の癌が発覚したときの記録を書く。


ヘビースモーカーで1日1箱は吸っていた父。

20歳から70歳まで50年間吸っていた。

70歳誕生日を迎えた頃、咳が止まらなくなって、少し息苦しさもあって、町のクリニックを受診。

レントゲンで肺が白くうつる。

腫瘍マーカーは基準値超え。


県立病院を紹介され、精密検査をすると、肺だけでなく、全身に転移が見つかる。


お腹のあたりにシコリみたいなのがあって、そこの細胞検査をすると、癌細胞だった。

シコリを触ると、乳がんの模型を触ったときと同じ感じがしてすぐにわかった。女性だとすぐに気づくと思う。

父は、脂肪腫だとおもっていたらしい。


県立病院の医師からは

「この転移の状況だと5年前からあったはずだ、ステージ5です。」

と宣告される。

5年前には町のクリニックで腫瘍マーカーの検査をしたが、異常がなかった。

腫瘍マーカーというやつは本当に当てにならないことを知った。


厄介なことに、父の肺がんは、非小細胞肺がんでも小細胞肺がんにも分類されない特殊なものだった。


アメリカで実証実験をした新薬を使うことを進められたが、その前に、標準治療の抗がん剤の投与が必須だと言われた。


そもそも県立病院は標準治療しか受けられない。

そのため、抗がん剤、放射線治療、手術の3種類からしか選べないのだ。


たとえば、癌に有効と言われる高濃度ビタミンC点滴などは受けられない。


そのため、県立病院に通う以上、抗がん剤の点滴は免れようがない。


わたしは抗がん剤そのものに懐疑的だったのだが、父自身が受けると決めたので、支えると決めた。


身近な人で抗がん剤を受けたのが父が初めてだったので、その内容に驚いた。


抗がん剤は、レッキとした【毒】なのだ。

わたしが抗がん剤な懐疑的だから言っているのではない。


点滴をする看護師さんは防護服的なのを着て点滴をする。

そして父からでる尿にはその毒が含まれているので使うトイレも指定される。

自宅に帰ってからも、トイレは2回流すように指導される。


父は抗がん剤の点滴を打った後、元気に家に帰ってきた。


でもその次の日から体調は急変した。

吐き気、脱毛で動けなかった。

吐いたりして水分が抜け、自分の誕生日もわからなくなるくらいボケた。

食欲は落ち、体重は10キロも減った。


慌てて病院にいくと、血管のナトリウム量(塩分量)が急激低下したことによる一時的なボケだったので、塩を食べたら、ボケだけは治った。


介護する側も毎日元気のない父を見るのがたまらなく辛かった。


〜後編へ続く〜