「兵藤恵昭の日記」ブログへようこそ。今回は、幕末から明治という激動の時代を駆け抜け、最後は「反逆者」として散った一人の男、大島渚(おおしま なぎさ)「名古屋事件」、そしてそのハイライトである「平田橋(ひらたばし)事件」について深掘りします。


映画監督と同姓同名ですが、こちらは「自由民権運動」という大義を掲げ、刀と短銃で政府に挑んだ本物の博徒の物語です。

 

1. 「英雄」から「アウトロー」へ:大島渚の波乱の生涯

大島渚は1849年、名古屋に生まれました。もとは士族か商人の家柄だったようで、藩校の明倫堂で学んだ教養ある青年でした。


しかし17歳の時、人生が一変します。さらわれそうになっていた娘を助けるために博徒を刺し殺し、親から勘定されて博徒の世界に足を踏み入れたのです。のちに、この時に助けた娘「たけ」と結婚しています。


彼の名が歴史に刻まれる最初の転機は戊辰戦争でした。尾張藩の戦闘的な博徒組織「北熊(きたくま)組」が民兵組織「集義隊(しゅうぎたい)」として再編された際、大島はその2番隊長に抜擢されます。彼は新潟長岡の激戦地で、藩士の「弾除け」とされる過酷な状況の中、抜群の戦功を挙げました。


維新後、一度は平民に戻され路頭に迷いますが、大島は諦めませんでした。7年間に及ぶ請願運動の末、1878年にはついに士族籍と俸禄を勝ち取ります。しかし、政府による博徒への一斉弾圧(博徒大刈込)で仲間や義弟が逮捕され、愛する妻とも死別したことで、彼の怒りは限界に達します。


「自由民権運動で世の中を変えられる」そう信じた大島は、博徒のネットワークを武器に、明治政府転覆という巨大な野望へと突き進むことになります。

 

2. 名古屋事件:強盗50回、革命資金を奪え!

1884年(明治17年)、大島渚ら博徒グループは、自由党の急進派(久野幸太郎ら)や高知県の活動家・奥宮健之らと手を組みました。彼らの目的は、武力で明治政府を倒すこと。そのために設立されたのが「公道協会」という組織です。しかし、革命には金がかかります。彼らが選んだ資金調達の手段は、極めて過激なものでした。

  • 50回以上に及ぶ押し込み強盗: 高利貸しや豪農をターゲットに、軍資金を奪い続けました。
  • 紙幣偽造の計画: 偽の一円札を作るための銅板まで作成していました。

単なる犯罪ではなく「政府転覆のための革命資金」という名目でしたが、その実態は武力闘争を辞さない「激化事件」の一つでした。

 

3. 平田橋事件:運命を狂わせた深夜の惨劇

この一連の動きの中で、最も衝撃的だったのが平田橋事件です。

1884年8月11日の深夜、大島や奥宮ら11名は岩倉市の豪農を襲撃しようとしましたが、戸締まりが厳重で失敗します。その帰り道、午前2時頃に名古屋市西区の平田橋付近で、警邏中の巡査2名から職務質問を受けました。


計画の発覚を恐れた大島たちは、持っていた短銃や日本刀で応戦し、巡査を殺害してしまいます。この凄惨な事件がきっかけとなり、警察の捜査は一気に激化しました。その後、別件の強盗で逮捕された仲間の自供から、背後に隠されていた政府転覆計画が次々と明るみに出ることになります。


 

4. 結末と残された志

逃亡の末、東京で逮捕された大島渚は、1887年(明治20年)6月3日、名古屋監獄で絞首刑に処されました。享年38歳。彼とともに実行犯の富田勘兵衛、鈴木松五郎も死刑となっています。


大島渚という男は、時の権力に利用され、捨てられ、それでも自らの尊厳を守るために戦い、最後は過激な理想に身を投じた人物でした。


現在、名古屋市西区の平田橋近くには、殉職した巡査を悼む「平田橋事件記念碑」が建っています。また、名古屋市平和公園には大島の孫によって建立された墓石があり、その波乱に満ちた志を今に伝えています。


単なる「強盗殺人犯」か、それとも「不屈の革命家」か。アウトロー博徒史の視点で見ると、彼は明治という時代の「光と影」を一身に背負った、実に人間臭い男だったと言えるのではないでしょうか。

名古屋市西区の平田橋近くに立つ、明治17年殉職した巡査2名の追悼記念碑。
昭和2年に建立された。