それから2000年まで、私は中国で生活しました。ようやく韓国に戻ったときには、親も兄弟もみんな亡くなっていました。


 日本政府は私たちがお金がほしくて自ら慰安婦になったと言いました。強制的に連れて行ったのではなく、慰安所では良い服を着せ、ごはんをきちんと提供し、良く面倒を見たと言いました。それならばなぜ、私たちは日本政府に謝罪を求めるのでしょうか。
 私は生き残ったから、皆さんと話し合えます。亡くなった人の悔しさまで、生きている私は伝えるべきだと思っています。人間は良心に従い、正しい生き方をしなければなりません。私たちは嘘をついていません。人が家畜や物のように扱われた慰安所での経験を、嘘だと言われた私の気持ちを考えてみてください」。

「頭には今でも残る傷が。人間扱いされなかった」


カン・イルチュルさん

カン・イルチュルさん

 カン・イルチュルさんは1928年に尚州で生まれ、15歳の夏の終わりに中国に連行された。カン・イルチュルさんが語る。
 「私の家は車通りのある道にあって、柿の木が何本も生えていました。秋には柿がたくさん実る豊かな家でした。末っ子として両親や兄、姉たちにかわいがられて育ちました。
 中国に連行されて、両親に会いたいと泣いていると殴られました。沢山の暴力を受け、頭には今でも残る傷があります。慰安婦は人間扱いをされませんでした。当時の悔しさを思い出すたびに涙を流しています。なぜ私は(被害者として)この場にいなければならないのですか。
 ここに来てくれている皆さんには感謝しています。皆さんが(従軍慰安婦)問題解決のために努力してくれているのが嬉しいです。悪いのは私の頭に傷をつけた日本兵と、政府です。

悲劇を繰り返さないために

 時に声を荒げ、時に涙を流しながら訴えた二人のハルモニ。昨年末の日韓合意についても「事前に何の説明もなかった」と憤る。彼女たちが望んでいるのは、日本政府が直接ハルモニたちに謝罪をすることだ。現在まで、日本政府は従軍慰安婦問題の責任の所在を曖昧にし、法的責任も認めてない。日韓合意では歴史教育など、再発防止措置の約束も一切なかった。被害者の存在を無視しながら、岸田文雄外相は「最終的かつ不可逆的に解決された」とまで発言。