あとになって、外出は「慰安婦」と呼ばれる女性がいる小屋へ行くためだと知りました。号令をかけて整列させたということは、軍が外出時間を保障し、公認していたということです。日本の軍隊が組織的にそのような形をつくりあげたことを、私は許せません。

1944年12月、前から3列目、右から3人目が中里さん

1944年12月、前から3列目、右から3人目が中里さん

軍が慰安婦の検診をおこなっていた

あるとき、婦長さんから呼ばれて、「いまから慰安婦の検診をおこなうので、軍医の介助をするように」と言われました。それは婦人科の検診でした。
彼女たちはトラックに乗ってやってきました。四台に一〇〇人を超す人たちが乗っていました。私の役割は、彼女たちの腕に注射をして、内診をするためのベッドまで連れて行き、消毒をすることでした。病気があるかどうかは、一目みればわかります。淋病だとわかっても、できることは消毒しかありません。痛がってワンワン泣く彼女たちの声は、いまでも私の耳から離れません。
検診のとき、彼女たちの名札には「兵隊用」「軍属用」と書かれていました。「兵隊用」「軍属用」と書かれた名札をつけていたのは、台湾や韓国の女性たちでした。


彼女たちは「特殊看護婦」の名で連れてこられ、アパートのようなところに収容されて暮らしていました。私は検診で出会ったひとりと仲良くなり、彼女の部屋に遊びに行ったこともありました。

一九歳だった私は、「慰安婦」と呼ばれる人たちがいること、軍が彼女たちを管理して検診している事実を知り、とてもショックでした。三亜というところは、当時、日本の海軍の司令部があったところですから、海軍・陸軍問わず軍隊が集中していた場所で、慰安所も無数にあったようです。こんなに恥ずかしいことを、日本はしていた。どういう事情があっても、こんなことは許されませんよ。
戦後も引き揚げるまですごく苦労して、ようやく日本に帰ってきたのは二三歳のときでした。

戦争する国づくりは許しちゃだめ

私が、このように戦地で見たことを話すようになったのは、民⚪連に入職してからです。それまでは絶対に話さなかった。話すことができませんでした。