「行き先は日本軍が中国に作った“慰安所”でした。そこが何をするところか、分かりませんでした。それほど幼い一〇代前半の娘たちが集められていました」と、イさん。少女たちは一日に四〇~五〇人もの日本兵と性交渉を強いられました。耐えきれず自ら命を絶った少女は多数。拒んだ者は、皆の前で殺されました。遺体は通りに捨てられ、野良犬の餌食となり、骨すら残りませんでした。
 逃亡を図ったイさんも、激しく殴られた上、日本刀で斬られるなどの制裁を受けました。いまも腕や足に傷跡が残り、耳や目もこの時の後遺症で不自由です。「私たちが居たのは本当に“慰安”の場だったのでしょうか? そうではありません。“死刑場”です」。
 カンさんも一五歳で中国の慰安所に。「人間扱いされず、お母さんに会いたいと泣くと殴られた」と、頭の傷跡を見せました。「被害のことを話すたび、心で涙を流しています」とカンさん。時折気持ちが高ぶり、語気を強めます。「日本政府は具体的な加害の事実を認め、私たち被害者に直接謝罪すべきです」。

■証言を聞いた職員は

 大阪民医連の林雅大さん(三三、事務)は、初めて証言を聞きました。“合意”発表後、「詫びたのだからいいのでは?」と言う友人がいたり、「韓国では反発が起きている」と報道があったり…。「直接ハルモニから真実を聞きたい」と考えました。参加して、ソウルの日本大使館前で一九九二年から毎週続いている水曜行動(一二〇〇回超)や、史実を遺すため韓国の人たちが大使館前に建てた少女像のことを知りました。
 「この事実を歴史から消すのは絶対おかしい。自分の二人の娘と重ねると胸が詰まって…。過ちを繰り返さぬよう多くの人に知らせたい」と話します。この後、大阪で毎月行われている水曜行動にも林さんは初めて足を運びました。

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 二人のハルモニは語ります。 「敗戦後、日本軍は私たちを山奥に残して逃げました。韓国に戻れたのは二〇〇〇年。嘘はついていません。」(イさん)。「生きているうちに解決を。」(カンさん)。
 当事者たちの尊厳は回復してはいません。早期解決のためにも、この事実を国内に広げる必要があります。


日本軍「慰安婦」…旧日本軍が戦地に設置した「慰安所」で、軍の管理下で兵士との性交渉を強いられた女性。誘拐や暴行・脅迫、人身売買など、当時の刑法や国際条約にも反する形で連行され、外出や性交渉の拒否などの自由はなかった。国際的には「性奴隷」と呼ばれる。朝鮮や中国のほか、フィリピン、インドネシアなど日本が侵略した国の女性が多かった。

(民医連新聞 第1614号 2016年2月15日)