オーフス市のアーカイブを管理しているソレン・クリステンセン氏によると、シンドバーグ氏は当時、南京郊外のセメント工場でドイツ人とともに警備員として働いていた。シンドバーグ氏はこの工場に、6000~1万人の市民をかくまい、治療などをほどこしたという。
中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。
同僚だったドイツ人のカール・ギュンター氏も、中国人のために仮設のキャンプや病院を作ってシンドバーグ氏を助けたという。
2人が働いていた工場は、デンマークのFLスミスという企業が建てたもので、シンドバーグ氏は1937年12月に雇われた。日本の南京侵攻の直前だった。
旧日本軍はその後、6週間にわたって南京で暴挙を繰り広げた。捕虜や市民を拷問し、レイプし、殺害した。この虐殺による死者は30万人に上るとみられている。
被害者の多くは女性や子どもだった。レイプされた女性は約2万人に上るとされる。
多くの中国人目撃者に加え、シンドバーグ氏のような現地にいた西洋人も、この残虐行為を記録している。
一方、日本の政府関係者や歴史学者は戦後、死者数について異論を唱えており、中国側を怒らせている。
シンドバーグ氏は空爆の標的にならないよう、セメント工場の屋根にデンマークの国旗を描いた。また、ギュンター氏とともに、デンマーク国旗とドイツ国旗を工場の周りに並べ、日本軍が立ち入らないようにした。
当時、日本はデンマークやナチスドイツとは友好関係にあったため、両国の国旗には敬意を示していた。