1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からジャワ島スマランにあった慰安所に連行し強制的に売春行為を続けさせていた容疑で、戦後、国際軍事裁判において(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人軍属(請負業者)たちが起訴、有罪が宣告されている[注釈 3]

この事件では、インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部が、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、その指示に反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性をスマランの慰安所に連行した。この事件を「慰安婦の強制連行」の証拠であるとの主張[4]がある。一方で、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、

のちに、オランダ領東インドにおけるオランダ政府主導の軍事裁判の報告を調査した吉見義明によれば、以下のようになる。

  • 当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている。)
  • 複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。