太平洋戦争における日本軍の戦局はミッドウェー海戦から一変し、敗北の度合いを深めていった。太平洋戦争末期には、アメリカ軍機のB29爆撃機による日本本土への空襲が本格化した。1945(昭和20)年3月10日には東京大空襲が行われ、

それまでは高高度からの軍需工場など目標地点を狙った精密爆撃が中心であったが、無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。その後、軍需工場がある地方都市にも爆撃が行われ日本は壊滅的打撃を受けた。
今回紹介する史料(1)、(2)は、地方都市を攻撃対象としてアメリカ軍機から大量にまかれた空襲予告ビラの一部である。ビラの大きさは縦14cm、横21cmの両面印刷で、


昭和20年6月7日、大垣の上空からビラがまかれた(『岐阜空襲誌』より)。(1)のビラはその時にまかれたものであろうか。(1)には、日本語で「日本国民に告ぐ」と題して、数日中に各市内の軍需工場を爆撃すると警告している。その中で、「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません」とも書かれ、住民に避難を呼びかけている。また、(1)裏には、編隊を組むB29爆撃機の写真を囲むように、標的とされた11の都市が記されている。
要約すると以下の4点が書かれている。

  • 数日のうちに記載してある都市のうち、4〜5つの軍事施設を爆撃するので避難すること。
  • 国民は悪くない。悪いのは国民を戦争に引き込んだ軍部である。
  • 戦争をやめる指導者を立てて新しい日本をつくってはどうか。
  • 記載していない都市にも爆撃するかもしれない。

しかし、多くの人はビラを見ることがなかったようである。それは、ビラを隠し持っている者は非国民やスパイと疑われたからである。また、都市によってはビラに毒が塗ってあるという噂が広まり、市民がビラに触れないようにしたからである。
こうしたビラは憲兵や警察などによって回収されたという。
予告通り、アメリカ軍は、昭和20年7月29日にビラに記載してあった大垣を空襲し、大垣の街は壊滅した。この空襲により、大垣城や大垣別院なども焼失した。残った建物は大垣駅などわずかであったといい、死者50名、負傷者も100名を超えたという。