母逝く | 爆熱!ゴッドフィンガー

母逝く

平成28年10月6日午前6時20分、母が他界しました。
6月から食欲がなく体重が1ケ月で7kg落ちたので、7月末に医者に行って検査したところ肺と肝臓に癌が見つかりました。
最初に母には伝えられず、自分だけが事実を伝えられました。肺に3か所、肝臓に至って臓器の9割が癌細胞で埋め尽くされていました。その他にリンパ腺にも転移が見られる状況で、放置すれば数ケ月の余命と宣告されました。又、年齢的な部分や癌の広がり方から見ても抗がん治療を行っても的確な治療は見込めないと思われる事、治療をしても長くて1年と言われました。
1週間後に再度、造影剤を投与して再検査をする事になりその時に母に病状を伝えるか決めることにしました。(後に振り替えると、この1週間が一番つらかった時期でした)
整体に精通していた母は偶然居合わせた電車の車中でも具合の悪い人を見つけると施術をする人でした。こんな母に体の事で嘘はついても無駄だと思い病状に関して全て伝えることにしました。
状況を知った母は、延命は行わずに自然に任せて終わりを迎えたいと言い、家族全員が一丸となって一緒に残りの時間を過ごす事に決めました。
幸いにも状況を知った叔母が、東京から駆けつけてくれて介護をしてくれることになり、自分たちは普段通りの生活の中で母の介護が出来るようになりました。
それからは、介護ベッドの搬入に始まり医療チーム介護チームなど多くの方々のサポートで日々過ごすようになりました。(但し、実際にサービスを受けれるようになったのは9月に入ってからでした)
途中、薬が効きすぎて朦朧とした日々が続きましたが一番弱いモルヒネを皮下注射するようになってからは食欲も増して意識状態も自然な状態を保てるようになり、母の逝った後の葬儀の段取りなどの聞きたいことは大方、聞くことが出来ました。また食欲が増したお陰で、食べたいモノも食べられるようになりました。自分が魚屋という事もあり、鮎が食べたいというので鮎の手配をして朝、出がけに

 

「今日は鮎を焼いてあげるよ」

 

と伝えて出社して帰宅すると

 

「おかえり」

 

ではなく

 

「鮎が来た」

 

と言われる始末でした。(苦笑)
それでも次第に病状は進行していて、10月3日に医師からは11月までは持たないでしょうと最後通告を受けました。それを受けて今の内に話がしたい人はという事で母の姉妹に連絡すると伯母達はその日の内に駆けつけてくれました。それが幸いして千葉の伯母は死に目に立ち会えることになりました。
10月6日午前2時頃に「痰が絡んで息苦しそう」と介護をしている叔母に呼ばれて母の所へ行き体を起こして水を少しづつ飲ませて痰が下りていくようにして2時半頃に安定したので一旦、寝ることにしました。この時は意識もしっかりしていました。
4時半に起床して、いつも通り身支度をしていると叔母が

 

「ちょっと様子がおかしい」

 

と呼び止められて母のところに行くと呼吸が荒く息苦しそうにしていました。血圧を測ってみても測定不能、体温が39℃8分まで上がっていっるのに顔面蒼白で冷たくなていました。指先を見るとチアノーゼも見られていました。
状況を訪問看護ステーションに伝えると

 

「とりあえず体温を下げるために頭と首筋、足の付け根を冷やしてください」

 

と言われたので冷やすと体温は38℃台まで下がり息苦しさも収まりました。が、そのまま呼吸がゆっくりになり間隔が長くなってきました。ここで看護師の方が到着して母の状況を確認すると

 

「時間の問題です」

 

と告げられました。この間に自分の姉妹や近くの親戚に連絡して皆が駆けつけて揃ったところで母は息を引き取りました。
体調が急変して最後をあっという間に迎えてしまいましたが、殆ど苦しむことなく母が逝けたので良かったのかなぁ…と思っています。
先ずは、病状発覚から終焉までを先ずは淡々とお伝えいたしました。