645年に蘇我入鹿が暗殺された日でした。
$みんなで学ぼう!?-蘇我入鹿の暗殺の図
俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともありますが、厳密にはこのクーデターの後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」なのです。

622年4月8日、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去しました。
厩戸皇子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになったといわれています。

626年6月19日、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となりました。
628年4月15日、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御しました。
有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいました。
血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いのですが、有能な山背大兄王が皇位につき、上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推しました。(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)
蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子(後の舒明天皇)を即位させることを強行します。
蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族たちは朝廷に出仕せず、もっぱら蘇我家に出仕する有り様となりました。
大派王(敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議しましたが、蝦夷はこれを拒んだといいます。

641年11月17日に舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女(皇極天皇)が即位しました。
蘇我氏の専横は更に甚だしくなりました。
642年7月、日照りが続いたため蝦夷は百済寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったのですが、その翌日には降りませんでした。
8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、5日間続きました。
人々は「至徳天皇」と呼びました。
これは蘇我氏と天皇家が、古代君主の資格である祈祷力比べを行い、天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味しています。

同年、蝦夷とその子の入鹿は自分たちの陵墓の築造のために、天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議しました。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
645年、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日しました。
三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席するはずで、中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決めます。
※『大織冠伝』には三韓の使者の来日は、入鹿をおびき寄せる偽りであったとされています。

同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝しました。
入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったのですが、俳優(道化)に言い含めて、剣をはずさせていました。
中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせました。
石川麻呂が上表文を読みました。
中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んでいました。
海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えました。

入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込みましたが、たちまち吐き出すありさまだったといいます。
鎌子は2人を叱咤しました。
石川麻呂が表文を読み進めるが子麻呂らは現れない、恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えました。
不審に思った入鹿が「なぜふるえるのか」と問い、石川麻呂は「天皇のお近くが恐れ多く、汗が出るのです」と答えました。

中大兄皇子は、子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出ました。
子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけました。
入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬りました。
入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭して「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」といったといいます。
天皇は大いに驚き、中大兄皇子に問いました。
中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えました。
皇極天皇は直ちに殿中へ退き、子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺しました。
この日は大雨が降り、庭は水で溢れていました。
入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられました。

右上の図は、江戸時代にこれを表した絵なのですが、忠実に表現しています。