扶桑 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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イギリスの協力により金剛型の製作、すなわち超ド級戦艦建造のノウハウを得ることが決定した日本は、次に設計から自分たちで行うべく行動を開始した。
 
 それが超ド級戦艦の扶桑型である。しかも、当時世界最大だった。日本はこのころから、抑止力として世界最大の戦艦で数に勝るアメリカを牽制しようとしていた。扶桑は、世界で初めて3万トンを超える戦艦として生まれた。
 
 しかしながら、いきなり世界一の戦艦を造るなど無謀極まりなく、もう設計の段階であれやこれや右往左往、あれもしろこれもしろ、あれもつめこめこれもつめこめ、速度は防御力はああでもないこうでもないで、扶桑型は設計案や構想が実に35種類! どれだけ四苦八苦したかが伺える。

 起工は金剛より一年遅れで、竣工は皇紀2575(大正4/1915)年11月だった。

 

 


 ところが扶桑は完成直後の色々な試験、あるいは運用開始から問題続出。

 まず攻撃力重視のため35.6cm連奏砲を6門も搭載したことにより、一斉射撃の砲煙で視界が真っ暗になった。

 次に重いのか出力不足なのか、速度が設計より全然でなかった。

 それなのに防御力がまったく足らず、長大な船体の大部分が「防御不足」とされた。これは、設計段階では自分より前時代の戦艦しか参考にできなかったためと言われる。

 特に真上からの攻撃に対する防御は最後まで改善できなかった。これは自分と同等以上の艦砲による砲弾の垂直落下や、なにより急降下爆撃をくらったらひとたまりもないことを意味する。

 さらに、前部2門、中央部2門、後部2門の主砲のため、弾薬室と火薬庫が船体の3か所に分かれており、そこを全て完全防御するとさらに重くて遅くなるという事実も判明。

 これらは、完全に設計ミスと言えた。そもそもこの時代に主砲6門の設計思想がもう古かった。他国にも実例はあったが、残念ながらWW1時代の設計思想だった。

 とはいえ、大金をかけて造っちまったもんはどうしようもない。改善に改善を重ねるしかないのである。
 
 扶桑も2回の大改装を経て機関を総取換し、装甲を加え、船体も30m伸び、なにより扶桑型の代名詞ともいえる異様な「くの字型の艦橋」へ生まれ変わった。これは主砲発射時の視界確保と、船体中央の第3第4砲塔の位置との兼ね合いの結果、その形になったそうである。

 

 

 デジタル彩色。


 現代でついたあだ名が「海の違法建築物」だが、単に箱を積み上げているのではなく、3本の巨大マストを柱としてそれへ前後に建物を増築してあるので見た目ほど不安定ではない。(はず)

 

 


 だが、最後まで垂直防御と弾薬庫付近の防御は不十分だった。

 先輩の金剛型や後輩の長門型と比べていかにも見劣りし、当時からついたあだ名が扶桑型ならぬ「不幸型戦艦」である。航空戦艦への改装もけっきょく伊勢型が担い、扶桑と山城は不幸なままだった。

 そんなわけで対米戦が始まると、扶桑と山城は完全な足手まといとして全く出撃の機会が無かった。真珠湾へ空母部隊の護衛として同行したが足が遅すぎて、途中から日本へ帰れという屈辱的な命令を受けた。

 

 


 ミッドウェーでも他の戦艦同様出番がなく、その後は瀬戸内海の柱島泊地でただ浮かんでたまに訓練するだけとなった。

 

 


 皇紀2603(昭和18/1943)年、その柱島泊地で戦艦長門、陸奥と待機していた時、突如として陸奥が目の前で爆発轟沈するのに遭遇した。この「陸奥爆沈」は、いまだに原因が謎である。

 

 

 長門、陸奥、扶桑。第一次改装の姿。


 ミッドウェーにて主力空母が一気に4隻沈んだのち、砲塔の多さが問題となっていた扶桑型と伊勢型を後部主砲2基をとっぱらって飛行甲板を設置しカタパルトより攻撃機や水上攻撃機を発進させる「航空戦艦」とする構想が上がり、検討されたが、結局伊勢型のみ航空戦艦に改装されて扶桑型はされなかった。

 

 

 デジタル彩色。扶桑と山城。訓練中。


 翌皇紀2604(昭和19/1944)年、米国艦隊と雌雄を決するべく一連のレイテ沖海戦が起きる。扶桑型にもついに出番が訪れた。いや、扶桑型の手も借りねばならぬほど、日本軍は追い詰められていた。

 扶桑は通称「西村艦隊」として西村中将率いる遊撃部隊を編成し、レイテ湾を目指した。編成は以下のとおりである。重要なので駆逐艦の艦名も記す。

 戦艦2(扶桑、山城) 重巡1(最上) 駆逐艦4(時雨、満潮、朝雲、山雲) の計7隻。

 話は長くなるが、外すわけにはゆかないので、なるべく簡易にまとめると、レイテ沖海戦とは「史上最大の海戦」と呼ばれるフィリピンを舞台とした日米豪の超大規模海戦である。日本はそれまでにミッドウェー、マリアナ沖、ガ島攻防戦で度重なる大敗北を喫し、じわじわと迫る米軍の侵攻圧力に防戦一方となっていた。いっぽうアメリカはフィリピン奪還を目標に、ここで一気に大攻勢をかけた。日本は残る艦隊戦力を大終結させ、侵攻する米軍よりフィリピンを護り米艦隊撃滅を図るべく、ここに艦隊決戦の火ぶたが切って落とされたのである。

 ご承知のとおり、日本軍は大々々敗北を喫し、聯合艦隊は壊滅する。

 米軍はフィリピン進撃の大上陸部隊の護衛及び日本軍の撃滅を図り、空母17に護衛空母18の合計35(!!)、戦艦12(!)、重巡11、軽巡15、駆逐艦141(!!)という言語を絶する艦隊規模をフィリピンへ集めた。航空機は約1000機、水雷挺等の補助艦艇は約1500隻(!!!)であった。

 対する日本は空母4、戦艦9、重巡13、軽巡6他、駆逐艦34、航空機は約600機(ほとんど新人パイロット)だった。

 10月22日から25日にかけて行われた一連の戦いで日本軍は惨敗を極めるわけだが、扶桑もその戦いの中で沈んだ。

 日本は艦隊を4つに分け、四方八方よりレイテ島のレイテ湾に集結した米軍上陸大部隊及び敵水上戦力の撃滅を目指し進撃した。一般的には小澤艦隊(陽動)、栗田艦隊(本隊)、西村艦隊(第1遊撃)、志摩艦隊(第2遊撃)と呼ばれる。それらはまさに待ち受ける数倍の規模の米軍により「各個撃破及び撃退」されたわけだが、ここでは扶桑にしぼって記述する。全体像を詳細に学びたい方は、専門書や専門サイトを参照願いたい。特に地名と地図が分からないと、どの艦隊がどこを通って何をしようとしていたのか把握が難しいが、省略する。各自ぐぐられたし!

 ブルネイを出発した西村中将率いる第一遊撃部隊(西村艦隊)は北上、東進し、はるばる日本より南下してきた志摩中将率いる第二遊撃部隊(志摩艦隊)と共にミンダナオ島とレイテ島を分ける狭いスリガオ海峡を突破してレイテ湾へ抜け、同じくブルネイを出発してレイテ島北部を回ってきた栗田艦隊と合流し米軍を挟撃することを目指していた。

 なお栗田艦隊はその途中、10月23日パラワン水道で魚雷を受けて重巡愛宕、麻耶が撃沈、高雄が大破撤退した。24日シブヤン海を東進中には5回にわたる大空襲を受け、武蔵が沈んで一時撤退(反転)を余儀なくされた。これが西村艦隊の運命を分けた。

 同じく10月24日、スリガオ海峡へさしかかった西村艦隊は最上より水上偵察機を飛ばし、目指すレイテ湾に米戦艦4と輸送船団80がいることを確認。

 

 

 スリガオ海峡にて米軍航空機が撮影。


 しかし、志摩艦隊は到着が遅れており、栗田艦隊が一時反転したことも無線が届かず知らなかった。米軍の空襲があり、扶桑は艦尾に直撃弾を食らって水上機やその燃料、爆薬が爆発炎上してバルジが裂け、そこから浸水。艦が傾斜するけっこうな被害となったが作戦自体は続行可能だった。

 西村中将は聯合艦隊司令より全軍突撃開始の命を受けたこともあり、栗田艦隊はそれほど遅れてはいないと判断したものか、再び空襲が行われる夜明けまでに海峡を突破しようと夜戦を決意。志摩艦隊を待つ余裕も無いままに24日2000ころスリガオ海峡の単独突入を開始する。

 ところが、海峡には西村艦隊7に対し、戦艦6 重巡4 軽巡4 駆逐艦26 魚雷艇39という大艦隊が牙をむいて待ち構えていた。

 魚雷艇と駆逐艦多数を昼間の水上機偵察で把握しており、駆逐艦4を先行させ、その後山城、扶桑、最上の順で海峡を進んだ。

 2230ころ、先行隊が米魚雷艇や駆逐艦と会敵し軽微な戦闘となるが被害はなかった。25日0130山城、扶桑、最上は先行駆逐艦隊と合流。再び7隻となる。

 そこへ米駆逐艦隊が数隻ずつの部隊に分かれて波状攻撃を仕掛けてきた。0300ころ、米駆逐艦隊が接近して27発もの魚雷を発射。米軍は駆逐艦にまでレーダーを備えていたが、日本軍はまだ一部だった。接近する駆逐艦群に西村艦隊は随時砲撃を加えたが、暗夜の魚雷接近を見抜けず、扶桑はいきなり右舷、艦のど真ん中に1本被雷した。

 その場所が悪かった。よりによって扶桑の弱点である第3第4砲塔の爆薬・火薬庫の間近だった。炎上、傾斜して落伍した扶桑はたちまちのうちに弾薬庫が誘爆、大爆発して艦の中央からボッキリと折れてしまった。遅れて海峡突入した志摩艦隊は、暗闇の中で真っ二つになって転覆、大炎上する扶桑を、扶桑と山城の2隻がやられて燃えていると思ったほどだった。

 0430ころ扶桑は艦首部が沈み、0520ころ明るくなってから米軍の砲撃で艦尾部が沈められた。

 かくして、戦艦扶桑はスリガオ海峡で戦闘開始早々、あまりにあっけなく撃沈された。あっという間に沈み、かつ深夜のうえ日本軍の救出艦艇も無く生存者はほとんどいなかった。

 なお西村艦隊は命からがら脱出した時雨を除き、扶桑、山城、最上、満潮、山雲、朝雲の6隻が敵雷撃及び砲撃、翌日の空襲、もしくは大破後味方の処分で沈み、壊滅した。海峡途中で反転した志摩艦隊は、軽巡阿武隈が沈んだものの脱出に成功した。

 扶桑・山城とも、初の本格的実戦で沈んだ。最後まで不幸であったと云わざるを得ない。

 なお、レイテで惨敗した日本海軍だったが、先に上陸してレイテに残された陸軍はさらに悲惨を極めた。そもそも台湾沖航空戦で「大勝利」「米機動艦隊壊滅」などという大本営発表を信じた陸軍作戦本部はこれを機にフィリピンの米軍を一気に追い落とそうとルソン防衛隊をレイテへ集結させており、一転した聯合艦隊壊滅で完全に孤立した。ガ島と同じ状況がレイテ島の規模で起きた。補給を絶たれた8万4千名もの陸軍部隊は上陸した20万の米軍と補給も制空権も制海権も無く戦う羽目になり、7万9千名が戦死、餓死、あるいは消息不明となった。