環境教育授業
みなさん!こんにちは![]()
BAJベトナム事務所インターン生の尾﨑(おざき)です![]()
ベトナムに渡航して1週間が経ちました![]()
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ベトナム料理が美味しく、幸せな毎日を送っています
(笑)
今回は環境教育授業について報告します!
3/3にThủy Xuân地区の小学校、
3/7にMỹ Lợi地区の中学校を訪問して来ました![]()
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小学校での環境教育授業のテーマは「水の循環」![]()
授業前まで元気いっぱいにはしゃいでいた子どもたちですが、
授業が始まると真剣に先生の話を聞いています!
ペットボトルで作ったろ過装置を使って、実験をしました![]()
汚れた水が浄化され、きれいな水が出てくる仕組みにみんな驚いていました![]()
中学校での環境教育授業のテーマは「大気汚染」![]()
小学生の子どもたちより落ち着いた雰囲気で、さすが中学生!という感じでした![]()
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この授業では、私も「日本の大気汚染」について授業をしました![]()
日本で深刻な大気汚染があった歴史やどのような対策をしたのか、紹介をしました。
「今の日本の大気は綺麗ですか?」「先生はどのような対策をしてますか?」など、
生徒のみんなからたくさんの質問を受けました![]()
環境問題を改善したい!という気持ちがある子が多いです![]()
私は、専門分野を学びながら、中学校教師になるための勉強もしています。
しかし、日本とは言語はもちろん、教育環境などが異なる状況で授業をすることは、
本当に難しいと感じました![]()
私が話した言葉をベトナム語に通訳してもらいますが、子どもたちにその言葉を
理解出来ているかはわかりません。
自分の言葉で子どもたちに伝えることが出来ない「もどかしさ」を初めて経験しました。。。
今度は、ちゃんとベトナム語を覚えて、授業をしたいと思います
(笑)
その後は、BAJ現地スタッフThuさんの授業![]()
大気汚染が私たちの生活や身体に及ぼす影響の大きさを子どもたちに伝えています。
先生の質問に子どもたちが積極的に手を挙げ、答えている姿が印象的でした![]()
日本では教科授業の中に組み込まれている「環境教育」ですが、
ベトナムでは授業で扱われていません…。
環境問題を学習することは、これからの地球環境改善のためにとても重要なことです![]()
BAJの環境教育授業を通して、たくさんの子どもたちに環境問題に対する意識を
高めてもらいたいと思いました。
栽培日誌の苦労。。。
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「さびしさとうれしさが入り混じった気持ち」
こんにちは、スタッフの正治です。
先日、いつもとてもお世話になっている方から「正治くんはシティボーイやからな」といわれ、いっさいシティボーイ感のない野暮ったい見た目にもかかわらず「そうか、わたしはシティボーイだったんだな」とストンと納得したことがありました。
というのも「シティボーイ」という言葉に、ついこのあいだまでベトナム・フエに出張していたときのモヤモヤした気持ちの「正体」を見た思いがしたからです。
今回のベトナム出張でわたしは自分が「シティボーイ」であることをつくづく自覚させられました。そして自分が「シティボーイ」であることは、もう本当にどうしようもないことだと痛感しました。
ですが、一方でこの“どうしようもなさ”を深く自覚することが、この活動の大事な部分かもしれないとも思いました。というか、この“どうしようもなさ”の自覚にしか、わたしの存在意義はない。そしてその自覚があるからこそ、社会に訴えられるものがあるのではないか――。フエの農家さんのすごさを目の当たりにしてそんなことを思いました。今回はそんな記事です。
「シティボーイ」を意訳すれば「都市に生活する幼稚なやつ」です。わたしは“都市の幼稚なやつ”で、それはもう骨の髄からそうなのでした。コレはこれからのわたしという人間のスタンスになると思います(誰がそんなやつの話を聴きたいのか? だけどそこから出発することしかわたしにはもうできないのです!!)
幼稚さとはこの場合なんでしょうか。それはもちろん農家さんに比べて習熟していないということです。何が習熟していないのか。それはもう“アスファルトの地面”と“耕された畑”くらい違います。何が違うのか? それは言葉にすれば簡単になりますが「感覚」です。身の回りの空気、熱、生きもの、匂い、風、などなど、それらすべてを感じる「感性」です。
なんでこんなに生きものがいるのだろう――農家さんを訪問中、そればかりに感嘆させられました。
小さな家の中に犬猫が何匹も歩き回っています。我々はついバイオガスダイジェスターを設置している豚小屋だけを注目しがちですが、それはあまりにも事業のことしか見えてなかったかも、と反省しました。フエの農家さんには豚以外にも動物がいる。こじんまりとした空間に、鶏、アヒル、鳩もいます。もちろん飼育している種類や数は農家によりますが、豚だけを飼育している農家さんはまずいません。必ずいろいろな動物がいます。動物ばかりではありません。植物も虫もいます。「農家なんだからあたり前だろ!」と言われるかもしれません(くり返しますが“都市に住む幼稚なやつ”なので勘弁してください)。
ですが、どうなんでしょう。本当に農家さんにはこんなにもたくさん生きものがいるものなんでしょうか?? なぜかわたしは今知ったような気持ちになったんですよ!!!(居直りました)
きれいな花をつけた植物、木から落ちて腐った果物にたかるアリ、ハエ、生い茂る大きな緑の葉、寝転がる犬と猫、飛んでくるトンボ、ほんの小さな庭にあるものだけでも何が何だか分からないほどたくさんの生きもので溢れかえっています。わたしはこれをひとつひとつ感じ取ることができない。名前も知らない。だけど農家さんは知っているし、それをひとつひとつ感じています。
そして、畑。収穫する作物はもちろんですが、作物以外の木や草、そして、いろんな虫たち。あるいは土のにおい、鳥の鳴き声、風の冷たさ、空気の湿り気、熱。それら一つ一つの情報が何かのサインとして農家さんには感じられていますが、わたしには分かりません。
日傘をさしながら長靴で泥のなかを歩いているとき、ふと顔を上げて向こうにある山並みを眺めながら、その「分からなさ」が、もうどうしようもないことのように感じられました。
しかし、不思議なことに、ぐちゃぐちゃと歩いているうちに、そうした無念さがやわらいでいくのです。
ほぐされていくような感覚。
無念さは変わらずある。だけど、それはそれとしてやわらいでいく。これはいったい何なのか。
わたしは農家の人ほどこの場所を感じることができない。わからない。だけど、そこにはとても豊かな世界があることだけは分かる。どこかでそのことを覚えている。忘れているだけで本当は知っている。……
これまでも何回も農家さんに訪問したことがあるのに、なぜ今回そんなことを感じたのか。それはいつも案内してくれるベテラン駐在員の方がたまたまいなかったせいかもしれません。そのため、私自身がいつもより前面に出て農家の方とコミュニケーションすることになりました。すると必然的にいろいろなことを感知するべく、目を凝らし、耳をそばだて、匂いをかぎ、植物や虫を手に取り、草や泥を踏み越え、お茶をのみ、あれこれ想像をめぐらすことになります。そうしたなかで「わたしには農家の方の暮らしの豊かさを十分に感じ取ることができない」という無念さとともに、「ある感情」がよみがえってくるのを感じたのです。
なつかしさ、悲しさ。忘れかけていた怒りのような感情です。
ある思い出がフラッシュバックして、目の前の活動の意味が「シティボーイ」のじぶんとつながりました。どうしようもない「都市の幼稚なやつ」だからこそ、祈るような気持ちでこの活動を見守ること(推進していくこと)ができるのだと自覚した瞬間でした。
思い出したこと。それはちょっと昔の話です。場所は東京郊外。
わたしの住んでいるマンションの隣は公園でした。だだっ広い原っぱでブランコとシーソーがぽつんぽつんと距離を置いて配置されていました。大きなけやきの木が広場の中心にあって、空高く茂っていました。桑の木に登って桑の実を詰んで食べたりしました。道を挟んだ生け垣の向こうは畑でした。決して広くない畑ですが、ネギや大根が植わっていました。椿や梅の花も見かけました。
そうした風景は全部なくなりました。1990年代です。正確には覚えていません。
公園は駐車場とコンテナが積まれた物置になり、畑はマンションと新築の住宅地になりました。子ども心にさびしくなったことを覚えています。
なにをどうすればあの風景を守ることができたのか。“いまは昔よりいいはず”と素朴に信じられなくなりました。確実につまらない風景が増えました。昔はまだなけなしの自然があった気がします。だけど虫も鳥も花も木も本当に見かけなくなりました。これはあまりにもよくある話で、誰もそんなに意識しません。だからこそ、さびしさはふとしたときに襲ってきます。そして、そのさびしさは誰とも共有できません。なけなしの慰めもない。ただ、さびしい。それだけです。
フエの農家もどんどん減っています。
タンさんの家からフーさんの家へ向かう途中、住宅地のとなりに大きな田んぼが広がっているのを見かけました。もうすぐなくなって住宅地が広がる予定だとスタッフから聞かされました。
経済が発展すると、市場にモノがどれだけ流通するかで値段が決まるため、大規模な農業が優位になります。インフラも整備され大量輸送が可能になると、ますます値段が下がります。小さな農家はひたすら儲からない。それだけの価値しかないのだ、となります。なので、都市は都市らしく、地方は地方らしく、分業すればよいとなる。それが近代の希望だったのかもしれません。そうして、近郊の緑の風景は、住宅地になり、駐車場になり、地元の野菜や肉は消えていきました。都市の発展にはよい面とわるい面があります。何をどう解決するべきなのか、正解はだれも知りません。BAJを含めていろいろな人が挑戦しています。
皆さまのご支援のおかげもあり、いまのところフエの直売所は大成功といえると思います。参加されている農家の方たちは口々に感謝の言葉を言ってくれます。実際に収入が向上して家を建て直した方たちもいます。
しかし、むせ返るような濃厚な生きものたちの空気を吸い込みながら、彼ら/彼女らの話を聞いていると、農家の方たちは地元の野菜や肉だけではなく、その土地の生きものや風景も守っているのだと分かります。
小さな土地かもしれませんが、農家さんはその場所に関して行政担当者も学者も知らない知見と感性を持った環境スペシャリストなのです。
「タンさんのお父さんお母さんも農家さんでしたか?」
「そうですね」
「いまと昔とくらべて農家さんはどれくらい減ったのですか?」
「すごく減りました。この周りは全部農家だった。だけど直売所の活動で収入は上がりました。バイオガスダイジェスターもとても役立っています。さびしさとうれしさが入り混じった気持ちですよ」
農家メンバーのタンさんとのやり取りです。「さびしさとうれしさが入り混じった気持ち」というのが、どんな気持ちなのか。わたしには分かりません。だけど、彼のさびしさは、わたしが子供のころ感じたさびしさと同じだと思いました。
さびしさはなくならない。だけどうれしさをなんとか増やすことができるのかもしれない。そうすれば「都市の幼稚なやつ」で終わらずに「都市の大人」になれるのかもしれない。
もしかしたら子どもの頃には想像できなかった解決策が、いまこの事業で実現できているのかもしれないと思うと、わたしもさびしさとうれしさが入り混じったような気持ちになったのでした。
幼稚なやつだと自覚しているからこそ、大人になりたいと願うのです。
正治
(シティボーイ宣言)
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