高校時代、僕の服装といえば、決まっていた。

色落ちしたジーンズに、少し大きめのスウェット。
どこかの古着屋で買ったような、毛玉のついたやつ。
動きやすくて、汚れても気にならなくて、何より“考えなくていい”のが気に入っていた。

それが大学に入ったころ、急に「自分の服装」が気になりだした。

まわりはなんだかおしゃれだった。
細身のパンツ、シャツのボタンの留め方、スニーカーの色合わせ。
なんとなく「このままじゃいけない気がする」と思い、慌ててバイトを始めた。

そしてようやく買った、ちょっと高めの流行りの服。
鮮やかなチェックのシャツに、細身のカーゴパンツ。
店員さんに勧められるがままに「これが今キテます」と言われて手にした一着だった。

着てみると、たしかに“自分じゃない誰か”になれた気がした。
ちょっと背伸びしたような、ちょっと大人になったような。

でも、その服はほんの数ヶ月で“あれ? もう古くない?”という空気になり、
いつしかクローゼットの奥で眠る存在になっていた。

結局、またスウェットとジーンズに戻った僕はこう思った。
「定番って、やっぱり落ち着くんだよな」


でも、最近になって分かってきた。

あのときの流行りの服も、それはそれでよかったのだと。

たとえ一瞬で流行遅れになったとしても、
そのときにしか着られなかった服だからこそ、ちゃんと記憶に残っている。

それはきっと、子どもとの時間にも、すごく似ている。


いま、我が家には小学5年生の長女と、小学2年生の長男がいる。

長男はまさに“パパと遊ぶのが大好き”な時期。

レゴ、ゲーム、将棋、戦いごっこ。とにかく「パパ、一緒に!」が口ぐせ。
ちょっとトイレに立っただけで「どこ行くの!? まだ勝負終わってないよ!」と叫ばれる。

まるで、次から次へと“今日の流行”を僕にぶつけてくるようだ。

その流行は、気まぐれだ。

昨日は将棋だったのに、今日はゲーム。ゲームと思ったら、突然「ドッジボールしよう!」と庭に駆け出す。

まるで毎シーズン変わるファッションのように、彼の“マイブーム”もめまぐるしく移ろっていく。


長女はというと、もう少し落ち着いている。

「パパ、遊ぼう」とは言わなくなった。
でも、「買い物つき合ってくれる?」とか、「これ一緒に見て」と声をかけてくれる日がある。

一緒に雑貨屋さんや文房具コーナーを歩きながら、あれこれ話す時間が、彼女なりの“今の楽しみ方”らしい。

それはまるで、派手な流行ではないけれど、今の彼女にぴったり似合う、ちょっと大人なコーディネートのように感じる。


でも、それもまた“今だけ”のものなんだろう。

近いうちに、買い物は友達と行くようになるかもしれない。
スマホでポチッと済ませる日が来るかもしれない。

親が一緒じゃなくても楽しめるようになる。それが成長というものだ。

わかってはいるけれど、どこか寂しい。


だからこそ思う。

定番の愛情があるからこそ、流行の遊びや関わり方も味わい深いのだと。

「いつも変わらない」もいい。
でも、「今しかない」っていうのも、なかなか悪くない。

ふたりの子どもたちが、それぞれの“流行り”で僕を巻き込んでくれるうちは、
なるべく面倒くさがらずに、ちゃんと楽しみたい。

忙しい日常のなかで、その波に毎回は乗れないかもしれない。
でも、見逃さずにいられるようにだけは、しておきたい。


昔、流行りに乗って買った服を、今はもう着ないけれど、
「あのときは、あれがカッコよかったなぁ」と思い出すことがある。

たまにクローゼットを開けて、ふとその服を見つけたときに、
「こんな柄、よく着てたな」と笑ってしまうような、あの感じ。

子どもとの日々も、たぶんそれに似ている。


いつか子どもたちが大人になって、
ふと昔のことを思い出すように、僕もきっと思い返すだろう。

「息子、あのとき将棋にどハマりしてたな」
「娘、文房具選ぶのにめちゃくちゃ時間かけてたな」

その一つ一つが、なんでもない日常だったけど、
そのときどきの“マイブーム”を一緒に楽しめた時間だった。


流行は、移ろう。

すぐに終わってしまうこともあるし、もう一度戻ってくることもある。

でも、だからこそ面白い。

そして、流行を楽しめるのは、定番がちゃんとあるからこそ。

これからも、子どもたちの“今”という流行を、できる範囲で取り入れながら、
家族という“変わらないベース”の上に重ねていけたらいいなと思う。


ジーンズとスウェットの自分も、
あのチェックシャツを買った自分も、
どちらも、ちゃんと“僕らしい”ファッションだった。

それと同じように、
「変わらない愛情」と「その時々の楽しさ」、
どちらも大事にしていけたらと思う。