親鸞聖人は、


「南無」の言は帰命なり。


「帰」の言は、至なり、また帰説[よりたのむなり]なり。


説の字、悦の音、また帰説[よりかかるなり]なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述るなり。


と仰った。


「帰」は至なりと言われた後に、また帰説(きえつ・きさい)とも言われた。


南無阿弥陀仏は「帰って来い」の喚び声。


けれども、その「帰れ」とはどういうことか。


普段、聞きなれない言葉なのでわかりにくいが、親鸞聖人はこれを「よりたのむなり」、「よりかかるなり」とふりがなをうってくださった。


つまり


「帰って来い」


というのは、


「私によりかかりなさい。」


「私を力にしなさい。」


ということ。


我々は案外、当てにならないものを当てにして、後になって


「こんなはずではなかった。」


「騙された、裏切られた。」


と、言わなきゃならないようなことが多いのではないだろうか。


「無常なるもの」を拠り所にすると、必ず後で後悔する。


「無常なるもの」というのは、常に移り変わっていくもの。


そういうものを拠り所にするということは、後悔のもとを自ら拵えているようなもの。


後悔だけならいいけれど、涙を流すことになることもあろう。


ならば一体何が本当の拠り所になるのか。


時代がどう変わろうと、世の中がどう変わろうと、場所がどう変わろうと、絶対に変わることのない常住なるもの。


これを拠り所にしないといけない。


実際問題、


「私は何にも拠り所にせずに生きています。」


という人はいないのではないだろうか。


我々は何かに寄りかかり、何かにもたれ、何かを当てにして生きている。


が、本当に間違いのないものを当てにして生きているかというと、案外、危なっかしいものを当てにしているのではないだろうか。


昔からよくお説教で使われる説話に、こんな話がある。


一羽の兎が一生懸命、木の実を集めた。


それでその木の実を食べたのだけれど、たくさん集めすぎて、どうにも食べきれなかった。


それをみんなで分け合えばよかったんだが、せっかく一生懸命がんばって集めたものを他の奴にやるのが惜しい。


それでこの兎がどうしたかというと、余った木の実を隠した。


草原の真ん中に隠した。


で、お腹がすいたらまた戻ってきて食べようと思った。


ところが、隠したはいいけれど、隠した場所がわからなくなったら何にもならない。


何か目印はないかと周りを見渡したのだが、草原の真ん中なので目印になりそうなものがない。


「困ったことになったな」と、兎は空を見上げた。


するとそこにいいものがあった。


そこに何があったのか。


木の実を埋めたところの真上に雲があったのだ。


兎は、


兎「この雲を目印にして埋めておけば、他の奴にとられる心配もないし、隠し場所がわからなくなることもないな。」


兎「なんでもっと早くこれに気が付かなかったかな。」


と思いついて、この雲と埋めた木の実の位置を何度も何度も確認した。


兎「これで絶対大丈夫。」


こうして兎はその場を離れてどこかへ遊びに行った。


日が暮れてきてお腹がすいたので、兎は隠した餌を食べようと思った。


そして兎は戻ってきて空を見上げた。


すると、いつの間にか目印にしていたはずの雲が無くなっていた。


こういう話。


雲はじっとしていない。


動いているものを拠り所にするというのは、これくらいに危なっかしいことなのだ。


我々は人生の中で案外、何を頼りにしているかというと、そういうちょっと目を離した隙にどこかへ消えてしまうようなものを


「これは絶対に確かなものだ。」


と思いこんで、


「俺はあれを握っている。」


「私はこれを見てるんだ、絶対に間違いない。」


こういうことになっておりはしないだろうか。


続く