南無阿弥陀仏の御六字と人間との関わり合いについて書いてみよう。
御六字が我らの耳の相手になってくださるとき、その御六字をなんというか。
これは、大経の下巻に第18願成就の文というのがある。
そこにお釈迦様がはっきりと言っておられる。
その言葉とは、
聞其名號
である。
我らの耳の相手になってくださるとき、その御六字を
名号
という。
その御六字が我らの耳に聞こえてくだされるのは、人間が口に南無阿弥陀仏を称えるからである。
ところで、南無阿弥陀仏を称えることができるのは人間だけだろうか。
実は、オウムが南無阿弥陀仏を唱えるのだ。
生物学的には、オウムというのは、自分の身を守るために聴いた音を記憶する。
そして誰かが近づいてくると、その覚えた音で相手を脅かすのだそうだ。
だから人間がオウムに「南無阿弥陀仏」と教えてやりさえすれば、ちゃんと唱えるようになる。
しかし人間が称えるのとは、少し意味が違う。
人間が称える時には南無阿弥陀仏を「称える」、つまり
称名
という意識がある。
しかしオウムにはそんな意識はない。
だから南無阿弥陀仏を称えられるのは人間だけであると言い切ってもよいのではないだろうか。
人間と御六字の関わり合い。
これを耳に聴くときには
名号
という。
これを口に称える時には
称名
という。
南無阿弥陀仏が我らの耳、口についてまわってくだされる。
が、御六字がただ耳や口についてまわっているだけでは、南無阿弥陀仏の本当のはたらきが出てこない。
御六字の本当のはたらきというのは、
「この娑婆で凡夫として日を送っているけれども、いつ無常の風が来ようとも、弥陀の浄土へ参らせてもらいます。」
という心のはたらきである。
そのはたらきは、ただ耳、ただ口だけでは出てこない。
もう一つ大切なところに届くというか、据わってくだされる。
その場所とはどこだろうか。
これはまあいろいろな言い方はあるだろうけれど、「心」というのが一番いいのではなかろうか。
御六字が心のどん底に届く。
耳や口についてまわった御六字が、
「ただの御六字ではなかった。」
と、我らの心に届いたとき、その御六字をはじめて
念仏
というのである。
仏を離れて私はない。
私を離れて仏はない。
仏は遠いところではなかった。
南無阿弥陀仏を私が称えて、私が聞く。
南無阿弥陀仏そのものが、仏様の来迎である。
「ここまで来たぞ。」
「心配するな。」
時には慰めてくださる御声。
またある時には
「そんなことでくよくよするな。」
と励ましてくださる御声。
そういうふうに御六字が我が心に届かなかったならば、それは念仏とは言わない。
このことは心に留めておかねばならない。
口に南無阿弥陀仏と称えるだけなら、それは念仏とは呼べない。
それは称名である。
称名が駄目だというのではない。
口に称える称名が、我が心に届いてはじめて念仏になるのである。
ここでもう一つ問題が出てくる。
それは、「念仏」と「信心」の関係である。
この問題は、昔から浄土真宗の教えを聞く者が非常に悩んだところなのだ。
たすかる道が二つあるかのように思うのは、その辺のところが曖昧になっているからである。
ある者は念仏でなければ救われないという。
またある者は、信心がなければ駄目だという。
どうだろうか。
はたして、信心と念仏は救いの座を争うものなのだろうか。
続く
御六字が我らの耳の相手になってくださるとき、その御六字をなんというか。
これは、大経の下巻に第18願成就の文というのがある。
そこにお釈迦様がはっきりと言っておられる。
その言葉とは、
聞其名號
である。
我らの耳の相手になってくださるとき、その御六字を
名号
という。
その御六字が我らの耳に聞こえてくだされるのは、人間が口に南無阿弥陀仏を称えるからである。
ところで、南無阿弥陀仏を称えることができるのは人間だけだろうか。
実は、オウムが南無阿弥陀仏を唱えるのだ。
生物学的には、オウムというのは、自分の身を守るために聴いた音を記憶する。
そして誰かが近づいてくると、その覚えた音で相手を脅かすのだそうだ。
だから人間がオウムに「南無阿弥陀仏」と教えてやりさえすれば、ちゃんと唱えるようになる。
しかし人間が称えるのとは、少し意味が違う。
人間が称える時には南無阿弥陀仏を「称える」、つまり
称名
という意識がある。
しかしオウムにはそんな意識はない。
だから南無阿弥陀仏を称えられるのは人間だけであると言い切ってもよいのではないだろうか。
人間と御六字の関わり合い。
これを耳に聴くときには
名号
という。
これを口に称える時には
称名
という。
南無阿弥陀仏が我らの耳、口についてまわってくだされる。
が、御六字がただ耳や口についてまわっているだけでは、南無阿弥陀仏の本当のはたらきが出てこない。
御六字の本当のはたらきというのは、
「この娑婆で凡夫として日を送っているけれども、いつ無常の風が来ようとも、弥陀の浄土へ参らせてもらいます。」
という心のはたらきである。
そのはたらきは、ただ耳、ただ口だけでは出てこない。
もう一つ大切なところに届くというか、据わってくだされる。
その場所とはどこだろうか。
これはまあいろいろな言い方はあるだろうけれど、「心」というのが一番いいのではなかろうか。
御六字が心のどん底に届く。
耳や口についてまわった御六字が、
「ただの御六字ではなかった。」
と、我らの心に届いたとき、その御六字をはじめて
念仏
というのである。
仏を離れて私はない。
私を離れて仏はない。
仏は遠いところではなかった。
南無阿弥陀仏を私が称えて、私が聞く。
南無阿弥陀仏そのものが、仏様の来迎である。
「ここまで来たぞ。」
「心配するな。」
時には慰めてくださる御声。
またある時には
「そんなことでくよくよするな。」
と励ましてくださる御声。
そういうふうに御六字が我が心に届かなかったならば、それは念仏とは言わない。
このことは心に留めておかねばならない。
口に南無阿弥陀仏と称えるだけなら、それは念仏とは呼べない。
それは称名である。
称名が駄目だというのではない。
口に称える称名が、我が心に届いてはじめて念仏になるのである。
ここでもう一つ問題が出てくる。
それは、「念仏」と「信心」の関係である。
この問題は、昔から浄土真宗の教えを聞く者が非常に悩んだところなのだ。
たすかる道が二つあるかのように思うのは、その辺のところが曖昧になっているからである。
ある者は念仏でなければ救われないという。
またある者は、信心がなければ駄目だという。
どうだろうか。
はたして、信心と念仏は救いの座を争うものなのだろうか。
続く