ここでは一般人は投影無しに
活動し難い仕様になってるので、
客観的に見てる主体に客観性は
あるのかっていう救い様の無い
疑問に対して、
多少の誠実さがあるなら
無限後退が可能な構造を
見切った上で
ああ、やっぱりなかったな、
って戻って来れると思いますし
戻ってこられないなら
まだどこかに客観があるって
力みを持ったまま他を疑い、
それと同量の自己批判ループが
無意識下で起こる様です。
なので他を疑うためのエネルギーは
そのまま内側で己はホントに正しく
あるのか?
っていう自己批判に
反映されやすい。
同じ回路が内外で向き先を
変えてるだけなんだけど
本人にとっては大変です。
で、このループが機能しちゃうと、
防御のためにさらに強固な
客観性の殻で、自分のホントの偏りを
他人に見せられない様になります。
そうするとめっちゃ窮屈くって
そのうち自己像へのシンボリックな
象徴化が始まったりして。
一貫性のあるパーソナリティとか
一般的に善良とされてる質とか
とうの昔に終わってる
インスピレーションの残渣とか、
ニヒリズムとかもとっても大変で。
ホントは自己言及なんて
するまでもなく、
思ったものそのもの、思った時、
その瞬間に客観という名を装った
主観が機能してるのだから
いかんいかん、今の思い込みだった!
とか言ってハッとしたとしても、
その時新たにその外側に客観風味の
メタ的主観層が立ち上がっただけで。
要するに
そこに気づいた自分こそが、
次の投影の担い手になって来る。
でも、そんなこと言ってたら
なんにも出来ないし何にも
思えないじゃん!
だからこそ
自分に機能する抗い難い仕組みに対し
同じ様に機能しちゃう他者の投影への
理解も進むわけで。
どう足掻いたって現代的で不自由ない
社会生活を望みそれを享受してるって事は
濃淡の差こそあれ自我(主観)
があると言う仕組みが生命や
豊かな生活を維持する為に働いてる。
自我を客観性のかけらも無い
ダメな奴だと否定したとしても
純粋意識さえも自我と言う
主観があるから後から定義
出来る事になってて。
なので、仕様に抵抗して逆に
投影に無意識に飲み込まれるのか、
制限に見えるルールを承知した上で、
投影をも受容して楽しみながら
それでも進めるのかという
その分かれ道すら誰かの
主観が作ったものだけれど、
でも選択せざるを得ないのが
ここでの人の性の様ですし
それ自体がプロセスを進める為の
演者の様なものかも知れません。