フィギュアスケートの曲として、多くのスケーターがプログラムに取り上げている「韃靼人の踊り」とはロシアの作曲家ボロディンが作ったオペラ「イーゴリ公」の第二幕で演奏される名曲です。韃靼とは「タタール」の音を中国語にあてた言葉です。
もともとは6世紀半ば、蒙古高原に興り、東は渤海、西はアラル海に至る大版図を気づいた突厥(チュルク=トルコ)が自らの部族外の諸部族を総称した言葉で、タタールとは「異なる人々」の意味だったといわれます。中国では「韃」はムチ、「靼」はナメシ革の意味で、常に中国の脅威だった北方、西方の遊牧騎馬民族を指す言葉として使われたというわけです。
「韃靼人の踊り」の英語での曲名はロシア語をそのまま直訳した“Polovetsian dance”(ポロヴェツ人の踊り)で、最近では日本でも、「ポロヴェツ人の踊り」という曲名で演奏されることが多くなっています。9世紀ごろ、ポロヴェツはボルガ川とウラル川の中間地帯辺りに居住していましたが、10世紀の初めごろ、ハザール汗国に追われるように西に移動、黒海北岸にいた同類のチュルク系遊牧民のペチェネグ族を駆逐し、それまでのペチェネグ同様、西方のキエフ大公国の領地に侵入を繰り返すようになります。ポロヴェツはキエフ側の呼び名で、東ローマからはクマン、イスラムからはキプチャクの名で呼ばれたといいます。ポロヴェツが支配した中央アジアから東ヨーロッパに至る大草原はキプチャク草原とも呼ばれます。
キエフ大公国(現ウクライナからベラルーシ辺り=キエフ・ルーシ)はロシア(ルーシ)の最有力国家の一つ、ルーシの名は一族の先祖リューリクに因んだもので、リューリクはノルマン人、つまりヴァイキングの出自だったそうです。
イーゴリ公はキエフ・ルーシの分国、チェルニゴフ公国の公の一人でポロヴェツと死闘を繰り返し、1185年の遠征で敗れ、ポロヴェツの捕虜となりましたが、ボロディンの「イーゴリ公」はこの辺のエピソードを題材にしています。
13世紀に入ると、ポロヴェツは東から疾風怒涛に勢いで迫る、チンギス・ハーンの長男ジョチの曾いるモンゴル軍の前に恐慌を来したポロヴェツはルーシの地に逃げ込み、反モンゴルでルーシと同盟します。ジョチは1225年西方遠征の途中で病没。家督を継いだジョチの次男、バトゥは1236年に西方遠征軍の指揮をとり、1237年靡下の猛将モンケはキプチャク草原に侵攻し、ポロヴェツを征服。降伏したポロヴェツのなかには奴隷として売られるものも少なくありませんでした。
十代前半になっていたバイバルスが属していたポロヴェツの支族は最後までモンゴルに抵抗していたようですが、ついにモンゴル軍に敗れ、バイバルスは奴隷として売りに出されました、
