Baichuan's Vlog
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河南省エイズ感染者訪問記/鄭州(2008.9月上旬)

  ある少年は6歳の時に口内手術を行い、その際、輸血によりHIV感染。小学校は4年まで通い、この二年間は休学している。母は息子の面倒を見るために スーパーマーケットを退職、父も息子の病気が会社に知れたようで休職を余儀なくされた。前職はシステムエンジニアで、国営企業に勤める平凡な会社員だっ た。

  息子は見た目には異常は見当たらないが、左頭部に小さなハゲがいくつかあるようで、最近急に痩せ始めたという。息子は自分の病気のことを知ら されておらず、父も息子になんと説明したらいいか分からないという。学校の級友や近所の住人には息子の病気のことは内緒にしている。他のHIV感染者やエ イズ患者を持つ家庭も会社には内緒にして出勤しているそうだ。しかし平日の昼間から母や息子がずっと家に居ることをアパートの住人は不審に思っているだろ う、とは父の弁。

  現在、患者と感染者には一人当たり200元程度(3000円)のお金が政府から支給され、また父のなけなしの給料600元はすべて息子の薬代に充てられ、月々の薬代1000元には及ばない。父は息子の命が大学生になる年齢まではもたないだろうと見ている。

  引越ししてきたアパートのまん前が小学校。玄関を開けると広い運動場が広がる。平日は子供たちの声でさぞかし賑わっていることだろう。息子の 耳に届く同級生たちの声は彼に何を想わせるだろうか。父が息子を抱きかかえ、体重計に乗せる。増えるどころか減ってゆく体重を示す針は、父に何を想わせる だろうか。リビングと寝室しか無い彼らのすみか。寝室で息子と一緒に辞書を引きながら教師代わりに勉強を教えやる母はとても明るい性格で、いつも息子と談 笑している。いつしか辞書を引くことも無くなる時、辞書をめくる母の指は母に何を想わせるだろうか。

  父母ともに40歳、息子12歳。エイズ患者の対応について、河南省は中国の中で一番待遇がいい、という父。河南省をあとにする日、「何を言っ てもが仕方ない」と力なく話す彼の浮いた目は、国家に賠償させると息んで話していた面会初日のそれとは違っていた。私の取材に対して多くを語りすぎたと 思ったのか、意図しない発表のされ方を危惧したのか、急に口をつむぎ、「中国の人民はみな中華人民共和国の国民であることに幸せを感じている」などと歯の 浮くようなことを言い出した。「2006年の時点で輸血によるHIV感染が中国国内で確認されているというのに、あなたの国の医療管理制度や国家に対する 人民の態度はあまりにもオカシイ」と私が言うと、若いころから共産党教育を受けてきた彼には、どうやっても国家には勝てないし、国家は人民を幸せにしてく れると思っているようで、なんだかよく分からない魔物のような装置が彼を支配しているのだろうか。

  エイズ患者の会の相談役を務める彼の携帯電話には時々、患者やその家族から相談の電話が入る。熱心にアドバイスをしたり相手の話を聞いてや る。息子のHIV感染を機にエイズ患者の友達がたくさんできたと言う。「なにかあったら気にせずいつでも電話してきたらいい」と電話の相手に言う彼。「彼 らと友達になれたことはうれしいけど、こういう形で俺と知り合うとは、彼らもツイてないね」と苦笑しながら日常の顔を少し取り戻す彼。

  バス停まで送ってくれる途中、料理は父母どちらが作るのか彼に聞いてみると、「普段は私が作るが、息子があまり勉強したくない時は『お母さん つくってよ』と妻を勉強部屋から追い出すんだ」と笑いながら言う。日ごろは病友の相談など人前では活動家の顔しか見せる機会のない彼だが、息子の勉強嫌い だけが父と息子になけなしのひと時を与えているのかもしれないなと思って、バスに乗った。

四川省震災地域訪問記/青川県編(2008.7月下旬−8月上旬)

  四川省の最北部青川県のヤオドゥー鎮青元村へ。村人が自分の壊れた家を案内してくれる。

  とある二階建ての木造住宅の前を通る際、通訳の強さんが「この家の主人は自分の家のあまりの変貌ぶりに精神が耐えられず、首吊り自殺しようと したが、幸い奥さんがその現場を発見し、一命を取りとめた」という。村人の地震前までの日常がどんなものだったのか知る由もないが、裕福とは言えないまで もそんなに過酷な日々に出会うわけでもなく、それなりに穏やかで平凡だったことは、どこの田舎にも共通するものだろう。日常の繰り返しが続けば続く程、あ まりに急な日常の崩壊はいとも簡単に彼の未来の絶望を招く。

  家を建てるのに三年かかったと語る年配の女性。農家では自宅の建築費を節約するために、みな兄弟や親戚が手伝いあって自分で家を建てるそう だ。日々の仕事の合間を縫っての家づくりのためこんなに時間がかかるという。それでも費用は10万元(日本円で150万円相当)は下らない。5月12日以 降、何度も頻発する大地震により、二階部分は全壊で見る影もない。旧正月である春節の際に一階入り口付近に貼り付けた「幸福」という文字が記された紙がま だ真新しい。

  建築途中で6月にも完成予定だったという家に二軒出くわした。この農村では土壁作りの農家も少なくないが、近年建てられた家の殆どはレンガを積み上げて造られる。柱に鉄筋が入れられることは少ないようで、折れ、むき出しになった柱の多くがそれを物語る。

  その一軒は二階建てで、壁面にはタイルも貼られ、90%が既に完成していた。持ち主のおばあさんが案内してくれたのだが、二階への階段が歪 み、危なくて二階には上がれそうにない。一階の内部の壁は内に外に、いびつに歪んでいる。割れた壁から差し込む光。地震の気まぐれと太陽の日常が記述する 映像が床に広がる。この部屋の窓から一度も誰にも見られることのなかった風景。

  もう一軒も二階建て、珍しく家の柱の中に鉄筋が柱あたり5~6本程度埋め込まれ補強しているにも関わらず、柱の数箇所が折れて曲がってしまっ ている。建設の途中で資金が尽き、完成まであと一歩のところで外地に出稼ぎに行った矢先の大地震。家の壁や柱には大きな亀裂が縦横に走る。もし自分で建て た完成間近の家が一瞬にして廃墟と化したら、私は耐えられるだろうか?案内してくれた中年男性が「お気をつけて」と玄関先まで送ってくれるが、私には返す 言葉もない。

  一切の記憶を持たない部屋。その窓から誰かに臨まれ、記憶されるはずだった風景とはどんなだっただろうか?主の記憶を持たない窓とは流産した風景そのものだ。

  この地域の家は危険防止のため政府がすべてを一斉に取り壊し、一軒あたり2万元の補助金が支給されるらしいが、とても足りず、銀行から無利子で再建のための資金を貸し出すらしい(しかしその多くが不良債権になるだろうことは想像に難くないが)。

  最後に強さんが山と山の間の谷間の村が土砂に埋もれ、村民200人ほどが全員生き埋めになった話をしてくれた。掘り出すことも無理のようで、 結果的に村そのものが墓と化してしまい、村の声は地層の一部と化した。土葬が一般的なこの地域で、来年からどうやって墓参りをするのだろう。


  生き残った子供たちは今日も川で泳いだり友達と喧嘩して元気に遊び、彼らの声が青い空に広がっていた。

家族を心に閉じ込めた人

(以下、自作ハンセン病ドキュメンタリー「また ゆく みち」に寄せた拙稿)


 本来、人は地域に参加し、地域が家族を作ると言っていいが、その地域から切り離されるとき、人は家族に依存し、それにも失敗すると個人となり、 心の中に家族や地域を領土化する(そして自らを永遠の子供として心の中に隔離する)、今回ハンセン病を患って故郷を追われた人に取材させてもらって気付か されたことだ。

 私が瀬戸内海にあるいくつかのハンセン病療養所にはじめて訪れたのは06年7月、いまからほぼ2年前のこと。とある職員の方に「かつて四国遍路 として放浪していた人を紹介してほしい」と尋ねると、その人曰く「入所者につらい過去を思い出させるのは忍びないので、こちらから入所者のプライベートな ことは一切聞かないことにしている」とのこと。「見ざる・聞かざる」ということらしい。園の職員と入所者の会話を観察していると、職員は聞き役に徹してい る、という感じだった。

 また、ハンセン病の後遺症の残る顔を見てくれるな、という「見ざる」もある。年頃の女の子が自分の顔が元の形からどんどん変形し、元に戻らなく なることを、どう感じるだろうか?そして一番愛情を持って受け止めてほしい母親から故意ではないにしても驚愕された場合、少女の心とはどんなものだったろ うか?「これはもう(実家へ)帰れないな」と少女時代の彼女は映画の中で語っている。

 もうひとつ元病者が故郷に帰れない理由がある。「病いマケ」と呼ばれる現象がそれで、地域社会において「あの家から病者が出た」と刻印づけ(印 づけ)が行われてしまうと、相当期間その家から病者の刻印が外されないことが、とある文化人類学者の調査によって分かっている(昭和30年代の調査)。肺 病の場合は「肺病マケ」、らい病(当時)の場合は「ドスマケ」と呼ばれるが、これは情報の流通や人の移動がほとんど行われない農村や山村において、人のう わさが都会のようにそう簡単には消えないことを表していると同時に、僻地ゆえ難病に対する恐怖感が啓発活動などによって克服されていないことも想像され る。

 日本のハンセン病関連の言論のほとんどは、らい予防法という法律により強制隔離が合法化され、患者家族を引き離し長らく苦しめてきた、というこ とが主題にされる。世間の差別がまだまだ根強いが、みな同じ人間、人として生きる権利を剥奪されたハンセン病快復者の人権回復を、社会復帰をとは言って も、人間としての各種能力とりわけ心の成長が未成熟なまま、社会で対人関係をこなしていくのはなかなか難しいだろうな、と思う。みな同じ、という言葉の背 景に、彼らを記号化して見過ぎていないだろうか?

 通常は心の中で父親や母親を殺すことを経て、親から自ら離れ精神的に自立していく「父親殺し/母親殺し」の例は世界いたる所で見られるが、心の 中に母子カプセルを作り親と癒着することで自らの成長を(結果的に)止めてしまった人の精神は、アダルトチルドレンのそれに至極似ているように思う。家と いう母体に引き蘢っている子供を社会に復帰させたり、また会社という母体に依存し切っている男性を家庭へと戻すことは、そう簡単ではないことはすでに様々 な事例によって報告されているが、ハンセン病快復者のこころの回復は果たして問題にされているのだろうか。親を思いすぎることは決して美しいわけではな く、むしろ隔離政策が子供たちの心の成長を止めてしまったことに取り返しのつかない残酷さを感じるのは私だけだろうか。

 映画の中では描かなかったが、この映画に登場する女性は「ふるさとの両親に墓参りをしたいとは思わない」と言っている。同時に「自分の家の最寄 り駅から家まで歩いて帰りたい」とも語り、これは想像するに、身体の中に眠っている記憶=かつて(父や母とともに)歩いた道を再度歩くことによって彼らと 過ごした時間を再び取り戻したいのだろうか、ふとそんなことを感じたため、私は彼女を父と歩いた善通寺のへんろみちに58年ぶりに誘ってみた。案の定とい うか、こちらから聞きもしないのにへんろみちを歩いた際の父の様子が断片的に口から漏れてきた。両親と共に過ごした記憶が身体の中で生き続けている、とい うことだろう。だから具体的な記憶を持たない墓石には特に参りたいとも思わないのかな、と思う。

 映画の冒頭で「自分が死ぬことでこの世のすべてから自由になって開放され、ふるさとへ魂が帰っていく」と語っていた彼女が、映画の最後では「自 分がふるさとへ帰るには、村の他の人に死んでもらわんといかんわ」と笑いながら言ったのが痛快。こちらが死ぬかそちらが死ぬか、このあたりが彼女の軽い本 音なのだろう。はて、ふるさととはいったい何なのだろうか。

テスト

3月上旬に東京に移りました