【あをによし:第9話.夜もすがら夢に惑う】
七瀬が二人目の子供を身籠(みごも)っていると知ってから、浬(かいり)と息子の颯(はやて)はよく家の中のことを率先してやっていた。七瀬は真夏の暑さに、やや体調を崩し、食欲も落ちていたので、気遣った浬は、七瀬が食べやすいメニューを、よく作ってくれた。
特に大和の国、三輪で生まれた手延べそうめん、三輪そうめんは、ツルツルとのど越しもよく、薬味の清涼感を持って美味しく食べられた。
「少し、風を入れ換えよう」
クーラーばかりでは身体が冷えすぎると、七瀬を気遣った浬は、リビングの窓を開けた。午後になって日陰になった外壁は少しばかり温度を下げて、涼しさを増した心地よい風が、カーテンを揺らしていく。七瀬は美味しそうに三輪そうめんを啜(すす)ると、口元を拭(ぬぐ)った。
「先生の作る三輪そうめん、美味しくてどんどん入るわ」
「俺は茹でただけだろう」
「ううん、とっても美味しくて食べやすいもの」
「だからといって、そうめんばかり食べていると、栄養が片寄るぞ。夜は肉にしようか」
「そうね、それなら買い物に行かないと」
「帰りに俺が買ってくる」
「先生にばかり頼っていられないわ」
「料理も俺がやるから、気にするな」
「でも勤務が終わってからじゃ、大変でしょう」
「大丈夫だ。それより颯の幼稚園のお迎えは行けるのか」
七瀬は小さく頷(うなず)いた。
「少し、歩きたいし。帽子、被って行ってくる」
「そうか、無理するなよ」
「そういう先生だって、昼休みにこうして帰ってきて、昼御飯作って、全然休めないでしょう」
「気にするなと言っただろう」
浬は優しく七瀬の頭を撫でた。
「病院からは近いんだ。帰ってきて昼飯を食べるのは同じだ。妊婦が要らぬ心配はするな」
浬は『何一つ、面倒には思っていない』と付け足した。
「午後からの回診に間に合えばいい。時間はまだある」
食べ終わった食器洗いも、浬が受け持った。
「私も、それくらい出来るから」
「颯のお迎えもあるだろう。俺が先に出るから、片付けただけだ」
浬はそう言いながら『夕飯は肉だけでなく、野菜サラダも用意しよう』と言った。やがて、時計が時を刻み、浬は七瀬を優しく抱き締めると、午後の回診に向けて、大学病院へ向かって行った。
一人になった七瀬は、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。グラスにコクコクと注ぎたすと、香ばしい麦茶の香りが漂ってくる。七瀬はそれをゆっくりと数回に分けて飲んだ。あまり冷たいものばかり飲むと、身体が冷えてしまうと気をつけている。昼は浬が作ってくれた三輪そうめんを食べた。涼しげで口当たりも良かったが、冷たいものばかりでは、妊婦の身体にも良くないだろう。そんなことを思ってか、浬は夜は温かな肉にしようと言ったのだろう。妊娠していない時には、コッテリしたラーメンや脂の乗った焼き肉もよく食べた。颯の時は、それも平気だった。しかし今回は、どうも重いものは胸焼けがしてしまうようで、なかなか食が進まない。それでも栄養価の高いものと、浬は肉を料理すると言っていた。焼き肉だろうか、それともステーキか。七瀬は独り言を口ずさんだ。
「ステーキは大好きだけど、食べられるかしら」
焼き肉でもステーキでも、タレはあっさりとしたものなら、大丈夫かも知れない。リビングから見える日差しの影も、少しずつ移ろって行く。そろそろ颯の幼稚園のお迎えに行く時間だ。七瀬は残りの麦茶を飲み干すと、つばの広い帽子を被った。時計が、幼稚園のお迎えの時間を告げている。リビングの窓を閉めて、カーテンを引くと、七瀬は颯を迎えに向かった。
ジリジリと強い日差しが照りつける。歩む地面も熱風が渦巻いている。サンダルの足元も踏みしめる程に暑く、アスファルトは向こうまで、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が上がっている。車道を通りすぎる車からも、強い照り返しが跳ね返ってくる。七瀬はその反射に、僅(わず)かに顔を背(そむ)けた。幼稚園まではほんの10分ほどの道のりだが、身籠ってからは、少しクラクラするようで、歩くのもゆっくりとなり、難儀している。颯を身籠った時には、初めのうちは眠気があったものの、安定期に入ると、ほとんど困ることはなかった。今回は少し違うようだと、自分でも自覚している。それでもまだ、浬が随分と気遣ってくれて、家事をそつなくこなしてくれている。それに倣(なら)って、颯も手伝ってくれるのは、この上なく嬉しい。七瀬は口元に微笑みを浮かべると、歩道の日陰に身を寄せた。街路樹が影を作り、暑さを紛(まぎ)らわせてくれる。南側から当たる昼過ぎの強い太陽の日差しは、行き交う人を容赦なく照らしていく。フゥと一息吐いては立ち止まり、七瀬はまた歩き出す。幼稚園までは普段では然程(さほど)掛からない時間と距離でも、今の自分は、無理なくゆっくりと歩くのが日課になっている。やがて幼稚園の校舎が見えてくると、気持ちがホッと軽やかになってきた。
幼稚園ではバス通園の子供たちが、帰り支度を終えて、次々にバスに乗り込むところだった。颯をはじめ徒歩通園でお出迎えの園児は数えるほどしかいない。その中で今日は、颯の大の仲良しの拓磨の姿が見えた。
「こんにちは、拓磨くん。今日はバスに乗らないの?」
七瀬が問い掛けると拓磨は嬉しそうに報告した。
「朝、妹が生まれたんだよ。これから妹に会いに、パパの車で病院に行くんだ」
「おめでとう、よかったね」
それを聞いていた颯は、はしゃぐように言った。
「僕にも、弟か妹が生まれるんだ」
「へぇ~、いつ、明日?」
「もうちょっと先」
「僕たち、お兄ちゃんになるのも一緒だね」
拓磨の言葉に颯は嬉しそうに頷(うなず)いた。七瀬のだるさも颯のご機嫌な姿を見ていると、しばし心が和(なご)む。
「じゃあね、颯」
「赤ちゃんのこと、明日教えてね」
「分かった」
「バイバイ」
迎えに来た父親の車に拓磨が乗り込むと、颯は大きく手を振った。
七瀬と颯は、帰り道を仲良く手を繋いで歩いた。夏の太陽の強い日差しは、少しだけ傾いて、長く影を作っている。颯はスキップ踏んでいたが、そのうち七瀬の歩幅に合わせるように、ゆっくりと歩き出した。
「フゥー、暑いね」
僅(わず)かに額(ひたい)の汗を拭(ぬぐ)い、七瀬が呟(つぶや)くと、颯は七瀬を気遣うように、そっと寄り添った。
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫よ」
「赤ちゃんが暴れているの?」
「ううん、赤ちゃんは静かにしているわ」
「僕、ママのバッグ持つよ」
麦わら帽子の影が重なり、七瀬のバッグを持ちかえる。
「今日の夜はパパがご飯を作るから、僕もお手伝いするね」
「ありがとう、颯」
二人は家までの帰り道を、ゆっくりと歩いた。頭の上から蝉時雨(せみしぐれ)が、絶え間なく降り注ぐ。颯は感慨深げに大木を見上げた。
「蝉、いっぱい鳴いてる」
「そうね」
「雨みたいだ」
「こういうのを、蝉時雨って言うのよ」
颯は耳を澄ました。
「あっ、止まった。また、鳴いた」
「たくさんいるから、順番に鳴いてるのかしら」
「暑い、暑いって言ってるんだよ」
「颯、上手」
「パパにも教えよう」
七瀬はそっとお腹に手を当てた。
「赤ちゃんも暑いわね」
「赤ちゃんもきっと、蝉時雨を聞いているね」
木陰に入ると、時折そよぐ風が僅(わず)かに涼しさを運んでくる。
「いい、お散歩になったわ」
颯は麦わら帽子をヒョイと持ち上げた。
「僕、汗かいちゃった」
「じゃあ、お家に帰って拭いたら麦茶飲もうね」
「うん、僕がママに入れてあげる」
「ありがとう」
二人はゆっくりと歩みながら家路についた。
「ただいま~」
元気な声と共に颯は家の中に飛び込んだ。それでも日頃から言われているように、ちゃんと靴を揃える。
「ママのもやってあげる」
颯は腰を屈(かが)めると七瀬の靴を揃えた。
「颯、凄いね。パパにも教えなくちゃ」
「だって、僕はお兄ちゃんになるんだもの。お手伝いもしなきゃ」
「パパにそっくり」
「エヘヘ~」
颯は日頃から父親の浬の真似をするのが楽しくて仕方がない。この頃は自分で幼稚園の制服を着替えて、バッグと帽子を掛けている。そして七瀬に言われる前に、速(すみ)やかに手洗いを終えた。冷蔵庫から七瀬が麦茶を取り出すと、直ぐにグラスを二個出して用意した。
「僕がママに麦茶を入れる」
「大丈夫?重いよ」
七瀬が手を添えて、冷たい麦茶をグラスに注(そそ)いだ。
「冷たくて美味しいね」
「パパが帰ったら、また僕が入れるね」
「ありがとう」
浬が帰宅するまで、まだ随分と時間がある。颯は英語の教材を持ってきた。
「明日は佑都お兄ちゃんの英語のレッスンだから、練習しておく」
「偉いね、颯」
「パパと約束したんだ。自分で勉強しておくって」
颯の可愛い声が何度も繰り返し聞こえてくる。七瀬はソファーに背凭(もた)れながら、耳を傾けていた。そのうち、心地よい声が眠気を誘い、七瀬はうつらうつら し始めた。瞼(まぶた)が重い。幾らも経たないうちに七瀬は夢の中に引き込まれていった。
夢を見ている。何処かの駅のホームに七瀬はいた。どうやら一人のようだ。乗りたい電車のホームはここではなく、連絡道を越えた向こうのようだ。七瀬は人の波に乗って、薄暗い連絡道を歩いた。なかなか乗りたい電車のホームに辿(たど)り着けない。やっとホームに着いた七瀬は、電車を待つ人々の中に紛(まぎ)れていた。やって来た電車は旧型だった。電車に乗り込むと、車内は混雑していた。座れないのは仕方がないが、今は辛くない。電車の揺れに身を任せていると、数駅行ったあたりで、七瀬は電車を降りた。ホームの混雑に駅員のアナウンスが重なり合う。長いホームから登り降りして、七瀬は駅の表に出た。知らない町並み、知らない駅と町の名前。どうしてここで降りたのかも分からない。ただ、何かを探して来たような気がする。近くで踏切の警笛が鳴っている。昔々見た事があるような、踏切の風景。なかなか踏切が開かないのは、ひっきりなしに電車が通過するからだ。七瀬は苛立(いらだ)つこともなく、踏切を渡らずに、もと来た道を引き返し、また駅に向かった。長い長いエスカレーターがある。駅ビルの華やかな照明が、きらびやかに浮かんでいる。隣には浬も颯もいない。自分一人なのに、誰かを迎えに行こうとしている自分がいた。それにはまた、あの路線の電車に乗らなければならない。七瀬はまた、ホームに立った。電車が警笛を鳴らしながら、ホームに入ってきた。七瀬はまた電車に乗るべく、歩を早めた。
「七瀬」
名前を呼ばれて、七瀬は目を覚ました。
「ただいま」
浬の声が直ぐ傍(そば)で聞こえる。時計は夕方を指し示している。
「ごめんなさい、もう、こんな時間」
「眠っていたから起こさなかった」
身の回りを見ると、夏用のガーゼの肌掛け布団が掛かっている。
「これ、先生が?」
「いや、俺が帰ってきた時には掛かっていたぞ」
「じゃあ、颯が」
「颯が掛けたのか?」
颯は満面の笑みで答えた。
「僕だよ。お昼寝の時には寒くないようにしなくちゃいけないんでしょう」
「そうだ、よく覚えていたな」
「ママが眠っていたから、そっと掛けた」
「ママのお腹には、今赤ちゃんがいるから、ママは風邪を引かないようにしなくちゃいけないんだ」
浬の言葉に颯は大きく頷(うなず)いた。
「ママ、寒くなかった?」
「うん、ありがとう、颯」
テーブルには浬が飲んだと思われる麦茶のグラスが置かれている。
「僕、パパにも麦茶入れた」
「そう、偉いね」
大きな麦茶のボトルは颯一人では持ちきれないだろうが、お手伝いが出来た颯は、ご機嫌だった。
夕食は浬が焼き肉を野菜に巻いて出してくれた。他にも真っ赤なトマトが入ったサラダや、食べやすく少し冷ました雑穀米も置かれている。
「お豆が入っているよ」
颯は雑穀米に興味津々だ。
「白いご飯だと、ママが少し気持ち悪くなるようだからな。雑穀米を足してみた」
「これなら、香ばしくて食べやすいわ」
焼き肉と、たっぷりの野菜で、暑さにバテそうな身体も元気に保たれる。食後の片付けや食器洗いも、浬と颯がやってくれた。
「先生、ありがとう」
「このくらい、普通のことだ」
浬は笑いながらそう言うと、颯を抱き上げた。
「次は風呂の準備をするか」
「うん、僕も手伝うよ」
「よし、やろう」
お風呂が沸くまで、まだ少し時間がある。七瀬は颯の着替えを用意した。半袖の涼しげなパジャマを手に取ると、サラリと心地よい。やって来た颯は、目敏(ざと)く見つけると、目を輝かせた。
「わぁ、今日は新幹線のパジャマだ」
「先生のも用意するから、ちょっと待っていてください」
「無理はするなよ」
「少し動いた方がいいから」
お風呂から上がった颯の身体をバスタオルで拭くと、七瀬は颯にパジャマを着せた。ほんのり湯気が上がっている幼子の姿は、柔らかで可愛らしい。特にお気に入りの新幹線パジャマを着た颯はご機嫌で、何度も新幹線の模様を眺(なが)めていた。遅れて上がってきた浬は、腰にバスタオルを巻いて、首からタオルを下げている。まだ、湿った髪が濡れていて、僅(わず)かに束になって揺れている。
「七瀬もゆっくり入っておいで」
嬉しそうに頷(うなず)いた七瀬はバスルームへと向かって行った。
浬は素早くドライヤーを掛けると髪を乾かした。
「僕にもかけて」
颯の髪が柔らかく揺れている。幾らも掛からず髪が乾くと、浬は颯の歯磨きを手伝った。浬の膝の上に頭を乗せた颯は、大きく口を開けている。そのうち歯磨きが終わると、眠くなってきたのか、小さな欠伸(あくび)をしていた。七瀬がバスルームから出てくる頃には、颯は浬の腕の中で、ぐっすりと眠っていた。七瀬に目をやった浬は、人差し指を唇に当てて『静かに』と合図した。子供部屋のベッドにそっと寝かしつけると、浬は直ぐに七瀬の髪をドライヤーで乾かし始めた。優しく指で髪をすく動作も、いつにも増して柔らかい。
「先生、疲れているのにドライヤーまで」
「これは俺が好きでやっていることだ。気にするな」
七瀬は嬉しそうに頷(うなず)くと、はにかみながら、浬を見上げた。
「初めて先生にドライヤーをかけてもらったの、思い出しちゃった」
「結婚前か、懐かしいな」
「覚えていてくれたの?」
「忘れないよ、留学に出発する少し前だった」
「初めて朝ごはんを作った日、確か先生は私を膝に抱き上げて、私の食べ掛けのパンを食べたわ」
「そうだったか」
「それは覚えてないの?」
「覚えているよ」
浬はドライヤーを止めると、優しく七瀬を抱き寄せた。
「忘れるはず、ないだろう」
浬のしなやかな指が七瀬の頬を愛しげに撫でる。
「颯が生まれてから、以前のように二人だけでゆっくり過ごす時間は減ったが、俺の気持ちは、あの頃と何ら変わらない」
七瀬は浬の指に、そっと口づけた。
「先生は、あの頃よりもっと優しくなってる。私のことも颯のことも、大切にしてくれる」
「言っただろう、愛してると」
「それがとても嬉しいの」
浬はクスリと笑うと七瀬の髪を撫でた。
「もっと甘えていい。お前は頑張り過ぎだ」
七瀬の事は今はもう、自身より浬の方がよく知っているのだ。それは重々分かっている。浬は七瀬を抱き寄せると七瀬の耳元で囁(ささや)いた。
「告白したよな。俺はもう、お前を可愛がることしか出来ないんだよ」
「先生ったら」
「とりあえず、今は抱きしめさせろ」
それはもう慈(いつく)しみとしか言えない、包み込むような愛し方だった。
「ずっとこうしていて」
「あぁ、いつでもしてやる」
七瀬は甘えるように話し出した。
「お昼寝している時、夢を見たの。何処か知らない駅のホームで、私は一人で何処かへ行こうとしていたわ。途中の駅で一度降りて、また電車で戻ろうとしていた。この頃、よく見る夢」
「不安か?」
「少しね」
「留学の頃を思い出したのかも知れないな」
浬は包み込むように七瀬を抱き寄せた。
「眠る時には側にいるから怖がるな」
「先生、私」
「夢を見てもいい。ただし、いつでも俺が付いていることを思い出せ」
七瀬はコクリと頷(うなず)いた。
その夜、七瀬は浬の腕の中で眠った。夢を見そうで不安もある。それでも、力強い浬の腕に抱かれて目を閉じた。ほどなく七瀬は眠りに落ちた。やはり、夢を見ていた。一人でさ迷う夢に不安を覚えるのか、七瀬は抵抗していた。魘(うな)されるまでは行かないものの、不安でいっぱいになる。夢は短いはずなのに、長く長く見ているような気がする。一晩中、そんな夢の中にいる感覚に、戸惑いを覚えた。浬に身を寄せる七瀬を無意識にも抱き寄せる強い腕がある。
「七瀬、大丈夫だ。いつでも側にいるから」
一晩中でもいい。愛する七瀬を夢の中から励ましたい。惑わせる夢など、幻(まぼろし)に過ぎない。真夜中でも明け方でも、いつだって不安をかき消してあげよう。夜毎(よごと)夢に惑(まど)わされる七瀬を、浬は抱きしめることを止めなかった。真夏の夜の夢は、一夜一夜、過ぎて行った。
第10話に続く…
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風月☆雪音