改:第9話.桜桃恋歌【縁.えにし】 | 風月庵~着物でランチとワインと物語

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毎日着物で、ランチと色々なワインを楽しんでいます。イタリアワイン、サッカー、時代劇、武侠アクションが大好きです。佐藤健さんのファンで、恋はつづくよどこまでもの二次創作小説制作中。ペ・ヨンジュンさんの韓国ドラマ二次創作小説多々有り。お気軽にどうぞ。

第9話.桜桃恋歌

【縁.えにし『趙氏醜聞録異文』】

耳にあの人の歌が流れる。頭の中で笑顔のあの人が振り返る。幼子を抱く手、花に添えられた指…あの人は優しく微笑む。

「皇子、守られよ!」
我に返ったミニョンは木刀を真一文字にすると、辛(かろ)うじてジョンファンの一撃を受け止めた。
「何をボーッとしているのです。脇がガラ空きです!」
片膝を付き押し返すミニョンの脇腹を木刀の先がかすめていく。
「うっ」
ミニョンは一度身体を引くと、強引な体勢のまま立ち上がった。

木刀を持った足元がふらついている。ジョンファンは立て掛けていた剣を取るとミニョンの前へ差し出た。
「お取り下さい。皇子」
木刀を落とす手が震えている。
「ミニョン皇子」
ジョンファンはミニョンへ渡す筈だった剣を取ると、そのまま頭上へ振り上げた。
「気を抜いてはなりません。これで皇子は三度死にました」
ミニョンはジョンファンを睨(にら)みつけた。
「そなたは主人に『三神剣』を見舞うのか」
「いいえ、華山派の最高奥技は『絶命三神剣』(大柱の真ん中に食い込む程の絶技)です」
ミニョンは微笑むジョンファンの中にチャヨンの面影を見た。
『チャヨン様…』
思わず声に出してしまいそうな口元を押さえ、ミニョンは苦しそうに横を向いた。
「今日はもう終わりだ」
「皇子?」
ミニョンは足早に部屋へ戻って行った。剣を収めたジョンファンは慌ててその後に従った。

ジョンファンに背を向けミニョンは窓の外を眺(なが)めていた。端正な横顔も、今日は何処か物憂(ものう)げに見える。
「ご気分でも悪いのですか」
「大事ない」
「しかし、お顔の色が優れません」
暫(しば)しの沈黙の後ミニョンは口を開いた。
「先にヨンジュンの所へ行ってくれ。私は着替えてから行く」
ミニョンはそう言うと静かに目を伏せた。

ジョンファンが部屋を出るとミニョンは新しい衣へ着替え始めた。この頃、密かに皇子の衣を脱ぎ捨て両班の道令(トリョン)を気取り、これでもかというように着飾る。そうしていれば私は皇子ではなく、愛しいあの方と違う巡り合わせが出来たのだろうと、叶わぬ想いに身を焦がしたりする。チャヨン様が女官と交わしていた会話の中に『あの方の白の衣は何とも上品で美しかった』と言われていた。ならばせめて私が、白の衣を身に付けて、愛しい方のお傍(そば)にいようと、そう思うようになった。



皇子の衣がスルスルと滑り落ちると、稽古(けいこ)の熱さを残すたおやかな背中が現れた。衣を解いた女官たちは下を向き、見つからぬ様にポッと頬を染めている。汗を拭(ぬぐ)い、さらりとした肌に柔らかな淡紅の衣が掛けられる。女官は更にその上に白色の表を重ねる。裏淡紅は白色を透かし上品な薄花桜を作り出す。

『私はヨンジュンに会いに行くと言いながら本当は…』
「皇子、とてもお似合いでいらっしゃいます。まるでチャヨン様のお庭の花の様ですわ」
側付きの女官サナの声にミニョンはハッと顔を上げた。
「どうなさいました」
「あ…いや、衣は曲がっておらぬか」
苦し紛れの言葉を返し、ミニョンは袖を広げた。
「よろしゅうございます
サナは皺(しわ)一つなく衣を整えると満足げに微笑んだ。
「皇子、今日もお綺麗でいらっしゃいます。お気をつけて行っていらっしゃいませ」
その高貴な後ろ姿をサナは女官たちと共にうっとりと見送った。

ミニョンは春色の衣をまとい軽やかに歩を進めて行く。やがて前方に見慣れた庭が見えてきた。小道を抜けミニョンは庭へ出ようと桜の木へ手を掛けた。

歌が聞こえる。 ああ、チャヨン様の声だ。歌は近づき桜の木の下で止まった。
「チャヨン、その歌は確か…」
「はい、ユン様がお好きな歌でした」
「そうだったな」
二人の声が重なる。
「ユン様と私とよく似た子と」
「庭を歩くのが夢だった」
チャヨンは小さく頷(うなず)くと、若葉の枝を見上げた。

「兄上、この木には桜桃がなります。ユン様が生きているうちに差し上げたかったわ」
「チャヨン…そなた」
「忘れません、今でもユン様は私の胸の中にいますもの」
チャヨンはまた歌い始めた。

♪桜散り、花の後には実が膨らむ

恋人のあの人のため私は甘い実を待つの

激しい胸の鼓動が耳の奥に響いている。
『恋人…』
ミニョンは元来た道を戻り始めた。
『チャヨン様の心の中には今でもユンがいる。私と共に花々の中にいても、あの微笑みは生涯ユンに向いているのだ』

ミニョンの頬を涙が伝う。
『チャヨン様、どうして』
涙を拭(ぬぐ)いミニョンは走り出した。薄花桜の衣がなびき、柔らかな薫物(たきもの)の香りが低い垣根を通り過ぎる。涙を拭(ぬぐ)う手が幾度となく動く。
『僕は…僕は…』
ミニョンは東宮殿に付くと、そのまま自室へ走り込んだ。バタン…という大きな音にサナは顔を上げた。
「皇子、どうなさいました」
「皆、下がれ!」
駆け寄るサナに続き女官たちは全て部屋を出た。

ミニョンは目の前の机につっ伏した。
『チャヨン様…チャヨン様』
胸の中で愛しい人の名を繰り返す。とめどなく流れる涙の中でミニョンは呟(つぶや)いた。
「分かっています。どうにもならないことだって。 だけど、どうして?ユンは死んでしまったのでしょう。チャヨン様、私を見て下さい。私はチャヨン様の事が…」
焦(こが)れる思いはやがて号泣となった。美しい皇子はその日、涙が枯れるほどの切ない恋を知った。

翌日、稽古(けいこ)に遅れたミニョンを迎えに、ジョンファンは東宮殿の自室を開けた。
「皇子!」
ジョンファンは目の前の光景に目を疑った。
「何だ、ジョンファン…早かったな」
そこには開(はだ)けた衣を直そうともせず、半裸の女を両腕に抱く美しい皇子が座っていた。

次回:第10話.薫風

(雪音)