Non-fril(実質本位、飾りなし)が、わては、よろしおます。 | フィリアボクシングジム会長のブログ
 英語で、ムカシ、Non-frilちゅう単語に、でくわし、これ、オモロイと思った。
 昔はアイビールックとヒッピールックが好対照の見た目の、ファッションだった。シャキッとニートにきめるか、ダランとはみ出し、ワシは、ここにあり、の自分志向の個性ねらいでいくか、これ、人間の見た目の外面性と、秘めた内面性からみると、面白いテーゼ。
 この双極も、つまるところ、ファッションである。ある種の外へ向けてのプレゼンテーションだからだ。単なる、だらしのない、無神経な、自分よがりの怠けもんの、"身をやつさない"人のことではない。それは、単なる内面の死である。遮断したババチイ外面、いち静物画である。
 ヌーディスト村、あるいは、外なる一切の飾り、身分、地位、出自、学歴、それら一切を捨て、自分の名前さえ捨て、砂漠にスッポンポンで、放り出されたとしたら、どうなるか? これ、面白いセッティングです。
 僕らがいかに、外面(そとづら)で生きてるか、これを、ヒヤッとさせられる。
 というのも、僕らは社会的存在として、イノチを与えられてる以上、いかに俗悪に見えようとも、それは外へのアクションちゅう人らしい在り方でもあるし、反俗もそうだと思う。哲学的な超俗志向も、人たるの、偉さではなく、存在そのものからすると、同じである。
 だから、Non-frilも、あのヌーディスト村のように、行動と思考を浮彫にするには、極めて解りやすい合理性をもつ。つまり、行動し思考しなければ、あんたは、誰なのか?に解答が出ない。どこの誰でどんな人か、さっぱりわからない。
 だから、たいてい、何もできなくとも、身をやつしたくなる。私は、ここよって、さけびたくなる。ああ!僕らは、愛されたい、のだ。かまわれたいのだ。どうか、無視しないで下さいと、手を合わせている。ノンフリルには、才能がいるか、余程の愚直でないと、それをモットーにするのは難しい。
 勿論、行動とか思考が、一種のシナを作って、独特の艶をだし、ノンフリルにひときわシャレっ気を醸す場合もある。
 だから、四の五の言ったところで、僕らは、魂をもった精神の生きもんです。
 ノンフリル、万歳‼ しかして、ギンギラも、ええん~ちゃう!!