般若寺(筑紫)と、筑紫野の塔心礎 その3 | 佐賀ンもん

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こんばんは、なんとか3回目。筑紫の般若寺についての記事ラストです。

 

 

今回般若寺ほか、古い筑紫野周辺の寺院を訪ねてみようと思ったのは、そもそも7世紀までこの地に寺院がなかった、ということに対して疑問があったからなんですね。

 

考古学的な遺物が見つかっていないとか、古い文書に残っていないだけであって、博多及びその周辺に寺院が建立されたのは、もっと遡るのではと疑っています。

 

 

 

日本最初の本格的寺院と言われる四天王寺。ほぼ同時期に現在飛鳥寺と呼ばれる法興寺も建立されています。

 

 

 

向原寺。四天王寺や法興寺より早い時期に、百済からもたらされた仏像を安置して尼寺とした豊浦寺があったのでは?とされるお寺です。

 

法興寺や向原寺は、中国から百済に伝わった仏教との関わりが大きいお寺なんですが、そもそも百済は地理的にも、あるいは武寧王(唐津の加唐島で生まれたとされる百済王)や日羅(九州出身で百済の高官だった日本人)のように人的な交流も多い北部九州ならば、遠く離れた都である飛鳥に仏像がもたらされるよりも早くに、百済の仏教文化が流れていても不思議ではないと思います。

 

 

んじゃあ、歴史の世界では、そのあたりを解釈しているのかを知りたくて、北部九州で最も古い寺院を見て回ってみたいと思ったからでした。

 

 

 

 

今のところの結論から言うと、さっぱりわからないままです。

 

筑紫の般若寺や観世音寺、また塔原塔跡よりも古い伝承をもつお寺は、先ほど出た日羅が関係していると思われる日羅山金剛院という名前が出てきて、現在の那珂川町にあるのではということでしたが、そちらの場所に休みの日に行ってみたりしましたが、何も見つかっていません。

(日羅は6世紀の人物で、法興寺や四天王寺ができる前に亡くなっていますが、鹿児島の坊津というところに寺院を建立したという話があります。坊津は、奈良時代に鑑真和上が九州に上陸した港であるため、一度訪れてみたい場所です。)

 

また、特に怪しい塔原塔跡の年代については、筑紫野市博物館や福岡市の埋蔵文化財センターなどに出て、自分で調べたり問い合わせたりしてみましたが、こちらも全く検討つかず。

 

ちなみに塔原塔跡の年代測定については、石なので放射性炭素や年輪年代などは使えないと思うので、塔心礎の形などから推測したのかなと思っていますが、こちらについても今後問い合わせしてみようかと思っています。

 

疑問点を整理してみます。

 

・西の大寺と言われた、観世音寺の塔心礎よりも、由来不明の塔原塔跡の塔心礎の方がはるかに大きなものである理由がわからない。

 

・現地案内板では塔原塔跡が最初の般若寺跡とあったが、般若寺は蘇我日向が孝徳天皇の病気平癒のため創建したとあり、観世音寺は中大兄皇子が母である斉明天皇追善のため創建している。孝徳天皇は中大兄皇子によって推挙されて即位していて、のちに中大兄皇子との意見の相違がもとで病を持ち崩御したと伝えられている人物なので、中大兄皇子が般若寺よりも小さな塔をもつ寺院を作ったとは思いにくい。なので塔原塔跡は般若寺以外の別の由来を持つ寺院ではないか?

(ちなみに斉明天皇の弟が孝徳天皇である)

 

・そもそも、百済との関係が深い北部九州に、遠い都である飛鳥よりも早く仏教文化が流れてきたことは想像できるので、なにかその痕跡があるのでは。

 

この点を中心に、今後も自分なりにいろいろ調べてみたいと思います。

 

なんか結論が出ないままですが、一応今回の記事はこれで終わりにいたします。