年末年始の福博の町 | 佐賀ンもん

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佐賀と九州のこと。

明けましておめでとうございます。今日が仕事初めでした。4日のお正月休みはあっという間に過ぎていきました。
三が日は結構寒い日が多かったようですね。
風邪などの体調不良が心配です。

大晦日は、博多のお寺を二軒見て、そのあと福岡側の町天神に向かいました。


町を歩いて、ふと目の前に赤いビルが見えてきたときに思い出しました。
以前百道の記事のときに、サザエさん通りの件を書いたと思いますが、福岡にはそれ以外にもいくつかサザエさんに関連する場所があります。
この赤いビルは西日本新聞社の本社ビルで、サザエさんが連載されていた夕刊フクニチを発行していた会社です。(夕刊フクニチは現在は発行されていません)
このビルは昭和50年代に作られたのですが、どうやら建て替えだったらしく、その前からこの地に西日本新聞があったと思われます。
長谷川町子さんは西日本新聞に勤務していたらしいのですが、当時の新聞社がどこにあったかは不明です。



さらに、こちらの角のビルは、現在パルコが立っていますが、ずーっと以前は岩田屋という福岡の老舗の百貨店が建っておりました。江戸時代から続く呉服屋だったのですが、現在は別の通りに店を構えています。
以前あった岩田屋の地下食堂で、サザエさんはマスオさんとお見合いをしたそうです。




こちらは1月3日、昨日ですね。ここ数年初詣に行っている警固神社に行ってきました。
さきほどのパルコからは歩いて5分ほど、向こう側に見えるビルは福岡三越です。



社殿の右側に回り込んで撮影しました。
あら、こんなところにビックカメラができてる、なんて思いながら空を見上げておりました。



この日はまたまた博多方面に足を運び、前回紹介した二つのお寺以外の、もう一つ博多を代表するお寺に参拝しにいきます。



はい、着きました。崇福寺という名前のお寺です。
もともとは鎌倉時代に太宰府で作られたお寺でしたが、戦国時代に荒廃したところを、黒田藩によって博多の地に移されました。




あまり山門らしくない山門は、元は福岡城の表御門で、大正時代にこちらに払い下げという形で移設されています。



反対側に回り込んでみました。
なるほど、こうして見るとますますお城の門らしさが感じられます。
どこがどうという見方は、全然わからないのですが、いかにもお城の門という感じがしませんか?



崇福寺に現存する唯一の塔頭、心宋庵です。
そういえば、博多のもう一つのお寺の聖福寺(名前似ていますね)は、30以上の塔頭があり、現在も4カ所ほど現存していました。
中心となるお寺といくつかの塔頭があって、いかにも門前町という雰囲気が残っていると、なんとなくですが町の風情が良くなる感じがします。




山門の近くにある地蔵堂です。基本的には、一般の参拝者はこちらでお参りします。
この日もひっきりなしに参拝の方がいらっしゃいました。神社よりは静かですが、待たずに参拝できますね。



境内の奥には、とても立派な庫裏がありました。



先ほどの山門は福岡城からの移設ですが、こちらの唐門もお城からの移設で、福岡城ができる前に作られていた名島城からの移設だそうです。
名島城は1602年に廃城されていますので、少なくとも16世紀後半にまでは遡る建物です。かなり古いものですね。
唐門とはどういう様式かなと調べてみたら、唐破風のある門だそうで、唐破風は曲線の部分が特徴の破風とのことです。



こちらの写真は、奈良の石上神宮の摂社で出雲建雄神社です。
なんでも唐破風が現存する最古のものだそうで、そういえば山辺の道を歩いたときに写真撮ったと思って探してみたら、見つかりましたのでのせてみました。
ちなみに鎌倉時代だそうです。国宝ですね。写真かなりブレてますね。
この出雲建雄神社は、もともと内山永久寺にあったものなんですが、内山永久寺は廃仏毀釈の最たるものとして記憶しているので、この拝殿をみるとちょっと切ない気持ちになります。

話がそれてしまいましたが、こうしてつらつらと歩いてみると、意外にも博多内にも由緒の古いお寺が残っています。その多くは鎌倉時代頃の創建で、禅宗が日本に入っていた頃ですね。
この頃と現代の博多の元気のよさは、なんとなく共通するものがあるように感じています。

ということで、今年最初の記事は、福博の町歩きになりました。
本年もよろしくお願いします。