なんにもないようで、何かがある:大宰府政庁跡 | 佐賀ンもん

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佐賀と九州のこと。

僕が小学生の頃の遠足場所といえば、油山に宝満山の山々だったり、山王公園や貝塚公園などの公園などでした。

その中でも、友だちの中でもがっかり度の高い場所が、以前は都府楼跡とよく呼んでいた大宰府政庁跡への遠足です。

あまりにも友人たちががっかりするので、どれほど面白くない場所(転校の都合で、僕だけが行った経験が無かった場所でした)なのかと思いましたが、行ってみたらとても楽しかったのをよく覚えています。

きっと子供たちにしたら、遊ぶ遊具もないただの空き地に見えたのでしょうけど、僕はこの頃から一見退屈そうに見えて何かがあるような場所が、大好物だったようです。


佐賀ンもん なりたて
これが、大宰府政庁跡です。
友人たちを擁護するわけではないのですが、これでも小学生当時と比べて、案内板などかなり整備されていますので、なんにもない度はもっと高かったように記憶しています。
それにしても広い。子供の頃感じたよりも、おとなになってからのほうがやたら広く感じます。

大宰府は、当時この地に置かれた軍事・外交の政府機関で、7世紀後半ごろにはすでに実務を行なっていたと言われています。
その後8世紀には、周辺を含めた条坊制の都市機能を有する、非常に大きな街であったと言われています。

菅原道真公の左遷先は、この大宰府政庁でした。
それ以外でも
吉備真備
大伴旅人
山上憶良
などが、長官の大宰帥や次官の大宰権帥として赴任しています。


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敷地内に、犬養孝さん揮毫の万葉歌碑を見つけました。
犬養孝さんは飛鳥でもたくさんの万葉歌碑の建立に尽力された方だったので、ここ太宰府でも見つけてちょっと嬉しいですね。

あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (『万葉集』3-328)

この句は、小野老(おののおゆ)が太宰大弐として赴任した時の歓迎会で、今の奈良はこんなんでっせと読んだ一句だそうです。
きっと当時の大宰府政庁には、平城京の赴任経験者もそこそこいたでしょうから、盛り上がったみたいです。


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敷地内にはあちらこちらに、礎石が残されています。一部は復元のものもあるようです。
写真の場所は大宰府政庁南門跡で、平城京の朱雀門のような荘厳な門が立てられていたそうです。



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雲の中に隠れていますが、奥には四王寺山があります。四王寺山には朝鮮式山城である大野城があり、7世紀当時白村江の戦いで緊張関係にあった唐から、大宰府を防護するために設置されたと言われています。



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大宰府政庁の正殿跡付近です。
傾いた礎石が、時の流れを感じます。



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お堀のような水辺には、スイレンが咲いていました。ここはどうも白のお花が多いようです。


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実はこの写真は2週間ほど前のものでして、この日はちょうどガクアジサイが見頃でした。

太宰府周辺は、僕にとってとても思い出深く、何度でもいきたい場所なので、ちょいちょいここをブログに載せる機会も多くなりそうです。
新しいカメラも今日到着しましたので、今度はぜひ大野城や水城などにも行ってみたいと思います。