俺は「可哀相な人」じゃないし、まだ終わったワケじゃない。
まだまだ始まっていない事だって多いし、見せつけてやる。
やってやる!
必ず復活してやる。
見くびるなよ!

それが「漢」ってもんだろ?

後悔だけはしなさんな?

どこまで めでてえんだろな おれはきづいてるんだろ ほんとは みとめたくないんだ こわいんだ うしないたくない

その昔、ダニエル・キイスが流行った時がありました。最初期の「アルジャーノンに花束を」と「五番目のサリー」の二冊のうち、友達とどちらが好きかという話しになりました。友達は「五番目のサリー」が好きだと言いましたが、僕は断然「アルジャーノンに花束を」が好きでした。原体験だった事もありますが初めて読んだ時は夢中になり、一晩で読破したほどでした。
それ以来、数度にわたって読み返す数少ない本の一冊となり、周りの友人にもすすめていた時期がありました。
たしかに「五番目のサリー」のほうが再生のお話しです。主治医の先生とも結ばれ、長年の苦しみから解放され女性としての幸せを掴むハッピーエンドだったと記憶しています。読後感は爽やかな気分だったように思います。
それに比べ「アルジャーノンに花束を」は救いようの無い話しです。ですが主人公のチャーリーが駆け抜けるように体験する事柄が僕にはとても身にせまってきました。途中読み進めるのが辛くなる程でした。血気盛んな若かりし頃でしたが泣いてしまいました。
ラストシーンは蛇足に感じる程、青年チャーリーの苦悩する姿が印象的でした。
学校で絵の勉強をしていた時は、この小説の表紙をモチーフにいくつかの作品を描いたものでした。刹那主義なのかもしれません。
僕の素養として元々あったのかもしれませんが、あれ以来、帯に書いてあったキャッチコピーの「愛に飢えてる孤独な魂」が身についてしまったようです。
僕は今、下りのエスカレーターに乗ったチャーリーのようです。
ただチャーリーのように忘れる事は出来ません。
自分にはアニアン先生のような人はいるのかな?
誰が泣いてくれるのでしょう。
誰も悲しませたくないけど。
「優しさ」と人は言うけれど、強い心の優しさと、弱い心が優しさと偽ってるモノは一見して区別がつきにくいものだと思います。

ただ今の僕はもうチャーリーを卒業したいと思うようになりました。
どうせならサリーのように新たな扉を開きたい。
その一歩を踏み出したい。

それでも好きな本はどっち?
と聞かれれば
「アルジャーノンに花束を」
と答えるでしょうけど。

今の人はどうして、こう‥自分発信したがるんだろう?

顔出しして、不特定多数の人の見るネット上にて自分のプライベートやプロフィールを晒して素性の知らない人と交わり、手軽なコミュニケーション方法から時には言葉や発言の行き違いから、トラブルに発展してる。

みんな「寂しい」んだろうけど、夢のような素敵な出会いなんて、そうそうある訳ない。
仮にあったとしても、相手次第でどうとでも取れるような文章でのコミュニケーションなのだから、その場で顔を合わせてする会話以上に言葉を尽くすべきではないだろうか?
Twitterやメールなど一見、双方向の会話にみえるが実際は一方的な発信の連続に思える。
同じ「本当に美味しい?」という言葉でも、眉をひそませながら聞くのと、笑顔で相手の返答を心待ちにしながら行われる実際の会話と違い、区別がつきにくい様なものだ。

だからじゃないけど、自分はメールではなるたけ言葉を尽くす努力をしてるし、時と場所を選ばない連絡方法とはいえ返信にも即答するようにしている。
実際の会話と違い、相手の顔色を伺いながら臨機応変に対応できない事や、返信を返さなければそれっきりというのは気軽で便利というツール上の弊害である気がする。

コミュニケーションとは双方向が伴ってのものであり、人と人が相対する以上、それなりの労力が伴うものだと思う。
分かり合えるのが難しいと誰もが実感している筈なのだから。。

人生の勝敗は、与えられた境遇で決まらない。人と比べるものでもない。自己の悲哀を制覇し、可能性をどこまで開化できるかで決まる。

諦めない。
諦めたくない。

そう思えるようになれた。

「ありがとう」



俺は何があろうと覚悟してる。
乗り越えていきたい。
生きていきたい。
幸せになりたい。
もう何も失いたくない。。。