皆さんお久しぶりです、気づいたら前から一年経っていました、死も近い。
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(2026年2月5日 呂輝鴻 東京都台東区にて)
○「私」怖すぎ問題について
ということで今回はこの1番身近で1番やばい『私=認識主体』について、結局どないすんのかについての話です。皆さん日頃生きていて私についてちゃんと考えた事はありますか。
私って何? 私はガチで存在してるん?
なんか私って嘘じゃね?

上記の様なキモい疑念は生きてたら一回は考えるやつですよな。例のごたる私も小3でこども怖いものランキング1位 死、2位 宇宙を知った時にママに泣きついてから今日に至るまで定期的に泣きついています。そうして色々泣きついてきた中でも1番根元でやばいテーマ、それが『私=認識主体』。
『私』ってなんすか笑、今これ何やってんすか笑、やり方わかんないすけど笑、おーい笑、これなんなん笑、マジに、、なぁ、、となっておりましたが、、、安心してください今は2026年、このような一見明確な結論がない疑問にも先人たちは果敢に挑み、既にある程度の答えを見出してくれております。
○「私=認識主体」はなぜ怖いのか
まず先人たちの答えに入る前に『私=認識主体』のヤバさを振り返りましょう。まず通説だと『私=認識主体』は謎の世界の中の地球という謎の惑星で存在する、有機物で構成され、食事・排泄・交配という謎アクションを行う生物という謎存在の中の謎人間という謎設定となっております。でもこの設定って全部嘘である可能性もありますよね、、実は『私』はナメクジでこの世界はナメクジの脳髄に電極をブッ刺した結果見てるやばい夢である可能性。『私』を構成する過去・記憶も実は5分前に脳にUSBメモリぶっ刺し決めて、よく分からん台湾人ハーフの記憶をインプットされてる可能性。またその2秒後にはスイスのおばはんの記憶をぶち込まれている可能性。『私』が認識してる他人は全て精巧に作られたロボットである可能性。
私たちは自分を認識主体として世界を観測していますが、観測している事象は全て自分の認識に依拠していますよね。だから自分の認識/観測自体が間違ってた場合(認知症とかそうやね)、自分が観測している世界が全て偽である可能性があります。また主体的に行っているという認識/観測という行為自体が、自分ではない他の存在によってあてがわれたものである可能性もあります。これらは否定しようの無い命題です、なぜなら私たちは私=認識主体を通してでしか世界を観測できないからです。こないして私という存在も含め、世の中に存在する全てのものを疑い続け、唯一確実に存在していると断言できるものが『今この世界を疑っている自分自身の認識』という結論に行き着いたのが『我思う故に我あり』の独我論のデカルトの兄貴な訳ですわ。
○独我論の論破
デカルトの語る独我論は、実は周囲の人間に意識がなくて、この世界もただのハリボテかも、その流れで万物を疑い続けた結果、この世界で唯一確実に存在しうるものは、この世界を疑っている自意識(=認識主体)のみやと言う「我思う故に我あり」先輩だったが、実はこの論考にも穴はありました。オーストリアの賢いひとこと、ウィトゲンシュタインによると独我論自体は正しいアイデアっぽいがこのデカルトの論考は無意味らしい。
このデカ兄の論は、その自意識が世界の一部として存在するというベースの下構築された論考であるが、、、そもそも他者を体験するということが成し得ないから、仮になんかの技術力で他者としての意識を二元的に獲得できたとしても、その際感じた体験は「私」として感じとられる為、「私」と「他者」の意識の相対化、比較、一般化は起こり得ない。「私」、つまり認識主体はどこまでいっても「私の世界」の範疇を出ない、というか「私」となっている以上その世界の外に別世界は存在し得ない、「私」が知覚、認識、説明できるものだけが世界であり、「私=認識主体」は世界の一部ではなく世界そのものである。賢いウィト兄は眼球でこの論を喩えてる、眼球は世界を視覚的に認識するが、眼球はその眼球自身を視覚することはない、世界は視覚によって作られ、眼球を主体とした場合には視覚(世界の像)を生み出す眼球こそが世界そのものである。つまるところ『認識主体』はどこまでいっても『認識主体』であって、二元的に異なる認識主体が存在することはないから、デカ兄みたいに他者と比較したり、他者の認識を疑うこと自体が不可能や、ゆう話ですわ(どちらにせよ究極に孤独であることにはかわりませんが、、、トホホ、、トホッ、、トホホホ、、、トホホッ)。
○僕のライフスタイル
ちなみに僕はいままで刹那的独我論をベースにしてきた感じがあります(いままで〜してきたという表現はかなりキモい)。今、世界を認識している『私』という認識主体のみが最低限確実に存在し、経験・過去・未来は全て偽りの可能性がある、、、だから最低限存在してるっぽい『今』の『私(=認識主体)』が『なんか気持ちいい』と感じていることが生き方だと思ってました。しかもこの求められる『なんか気持ちいい』にもある程度の指針があって。。。まずストーリー・文脈によって発生した快を認めなかったんですわ、文脈で得た快は単なる、カタルシスや、安堵である可能性が高いですし、まず刹那的独我論を信じてるくせに刹那の対極である文脈も信じるのはなんか矛盾してるし(じゃあ今書いてるこの文章なんやねん)。あと快はロジカルなやつはダメで、説明/言語化もしたらアカンおもとります。言語としてその快のロジックを説明した瞬間にそれは快じゃなくなって、語り得なかった感覚世界から切り取られた言語による定義/仕組みになってまいますねん、あと快が発生した理由付け自体が言語による誤謬である可能性も捨てきれへんですし。そもそもの認識主体の快自体が偽である疑いもあるんやけど、現状感じている快は快であるのだから、本当の快として感じている手前、それは本当の快だと見なすしかない。といった風に謎縛りをしておりましたが、こんな理論を実践していても、この理論/理解というフロー/意味という意味自体が偽である可能性は捨てきれず、結局完全に恣意的に生きることは不可能なので、瞬間&瞬間の快/不快に身を委ねるという生き方を、そのロジックを全く意識せずに実践するべき、という結論に落ち着いておりました、、、。(この点で僕がマジでラッキーだったのは、ダス・マンとしての世間一般の倫理観/嗜好/快不快の基準に、自分のそれがマッチしていたことやと思う。多分ガチで一ミリでもズレて刹那的独我論を実践していたら本当のキチガイになってたっぽいわね、、)
と言った風にヤングな僕は経験から得た独自の理論を元にキモいライフスタイルを送っておりましたが、、。先程のウィト兄の論考(下記)を引き出してくると、僕自身が世界を"そう"いった具合にガチに認識・説明しているのであれば、世界はつまり"そう"ということになるわけでして、、、
>From ウィト兄
「私」が知覚、認識、説明できるものだけが世界であり、「私=認識主体」は世界の一部ではなく世界そのものである。
またウィト兄は他に独我論、というか哲学全体に関してこんな感じの論考をしていた。
>From ウィト兄
他人の意識の存在を証明できない、つまり『他者の意識の存在(証明できないもの)を証明できない』と言ってるけど、それはトートロジーなんですわ、要は『リンゴはリンゴだ』と同じで、哲学者はそういった謎の命題をあーだこーだ議論しても無意味なんですわ。言葉で語られへんねやったら言葉じゃない方法で示してくれや。
つまるところ急にフィロソって倫理・美醜・生きる意味・意思・神などの『私=認識主体』を通して語られる絶対的概念、そもそも自分が認識していない仮定の疑問、絶対的&超越的価値をベースにした命題などを言語を用いて他者と"語らう"べきではないということですわ。ここで大事なのはそういった類いの語れない事象が"存在しない"ということではなく、あくまで言葉で語ろうとしても無意味やから『示せ』ということです。
○ほな「私」ってなんやってん
ここに来てようやくこの文章の結論が見えてきましたわね。『私=認識主体』ってなんなん?という疑問から書き始めた文章でしたが、、
私という存在はつまり私の世界であり、どこまでいっても私という認識主体の枠を抜けれない絶対的/超越的な事象なので、【『私=認識主体』は何だ】という命題は、、、『何(認識主体=超越的価値であり言語で説明しえない)は何だ』と語らっている様なもので、このトートロジーな議論/命題は絶対的な定義が不可能かつ、論理的に新しい情報が一切生まれていないので全く意味がないということです。だからさっきの僕の様に、認識してない仮定から導き出された自分の世界観語ってる暇あったら、自分が認識している世界をちゃんとした世界とみなして、カラムーチョのおばはんの新デザインを考えたり、考えなかったりする方がよっぽど有意味やということですわ。
【ヒー一族家系図】

ーこういうの好きな奴におすすめのやつー
・メルロ=ポンティ
・ウィトゲンシュタイン
・キルケゴール
・永井均
・エピクロス
・ディビッド・チャーマーズ
ちょっと今回音楽じゃなさすぎたので少しだけ音楽語ると、、、最近はTHA BLUE HERBばっか聴いてます、日本語ラップで1番世界観あるかもですので是非『路上』という曲聴いてみてください、ネパールの首都カトマンズの少年を題材にした歌です。次回はこのTBHについて書きます!よろしこ!
