私が思うには、もし自分が日本以外での国に行ってたとしてもきっとまた差別が何処かで起きてたと思う
私はあんまりハッキリとはわかっていなかった
日本語を覚えるよう、必死に勉強をして生活していた
母国のブラジルでは保育園から小学校2年生までしか通えなかったけど、そういったいじめはなかった
弟と妹は日本で小学校一年生から通い始めた
それでもいじめはあった
弟はそうでもなかったけど、妹の方はお父さん似で、明るい瞳、髪も天然パーマがかかってて、誰が見ても外国人だと一発でわかるぐらいだった
私はどっちかというと、お母さん似でブラジル人というより、日系に近い見た目で、ブラジル人からしたらあんまりブラジル系、ラテン系の顔でもないし、日本人からしたら私は日本人の顔でもないんじゃない
知ってる人も沢山いるとおもうけど、ブラジルでは昔からいろんな国から沢山の人達がやって来て、特に日本の人が多く、日系人やハーフ、クォーターの混血を持つ人が沢山増えた
それもあってか、ブラジル人の顔というのはハッキリどういう顔なのかはわかる人も少なく、逆にちょっとでもアジア系の顔の人がいるとブラジルの人から見たらその人は日本人に見られることが多い
今では日系人が多くいて、純血な日本人も沢山いて、それが当たり前になってて特に不思議には感じないし、そういう国になった
だからブラジルにいた頃は日本人に間違えられることもあったし、でも特にいじめはなかった
特別な扱いももちろんなかったし、それは自分が小さかったからかもしれない
お母さんの祖先、家族ではひいお婆ちゃん、私のお爺ちゃんが日本人
彼らが昔、ブラジルに渡って来た時はどうだったかはわからないけど、きっと昔のことだから大変な時期だったんじゃないかなあと思う
日本に来た理由
私はあんまりハッキリとはわかっていなかった
なんで家族が沢山いるブラジルを離れ、それにものすごく遠い国に行かなきゃいけないのか
最初に母と父が二人で日本に行くことになった
2〜3年ぐらい滞在した
まだ小さかった私、弟、妹をお婆ちゃんの家に残し、仕事をしにまず日本に行った
当時は貧困問題もあって、今でも貧困問題はブラジルのいくつかの場所でも続いてるのが現実
私はお母さんとお父さんが大学生間近の時に産まれ、聞いた話では当時、私がお腹にいた頃は、
お母さんがある日突然意識を失ってしまい、どっちも命の危機があったと言われた
そのあとは無事産まれたとはいえ、未熟で産まれ、900g以下で急遽、緊急治療が必要だった
だからすぐ親のところには行けず、しばらくは別の部屋で治療をしていたと言われた
無事退院し、
その1年後に弟が産まれ、妹はその2年後に産まれた
私の家族は特にお金を沢山持ってたわけじゃないし、ものすごく貧困だったわけでもないけど、親は若くして子供を持ち、さらに当時ブラジルではあんまり仕事がなかったため、ギリギリな生活をしていた
お金を貯めて仕方なく私と兄弟達を残して日本に行くことになった
本当なら家族みんなを連れて行きたかったけど、そんなお金もなかったことだし、我慢するしかなかったんだなあと、そのあと理解できるようになっていた
その分、日本で沢山働いて、私達に今よりもっといい暮らしをさせてあげるからねと言われたのは覚えてる
すぐ帰ってくると言われたが、やっぱりそんな簡単にはいかなかった
親どっちも日本語が喋れるわけではないから、すごく苦労したと言われた
だから親は日本語の勉強をしつつ、仕事をしていた
3年後に母だけがブラジルに来て、私達を日本に連れていった
初めての旅行✈️で、みんなすごくテンションが上がってた
大好きなお婆ちゃん、叔父さん、友達と離れるのはすごく悲しかったし沢山泣いたけど、これでやっとみんな一緒にいられると思い、別れを惜しんだが、今後の生活も楽しみにしていた
新しい国はどういうところかは想像してたのとはいろんな意味で全然違った
親が私達に日本からよくお土産を送ってくれていた
お菓子、ポスター、服、日本語の曲が入ってるCD
ポスターには日本の有名なお寺、舞妓はんの写真、忍者、侍さんなどが載っていて、私のイメージはそんな感じになっていた
今でもブラジルの友達に日本について聞かれるが、話を聞いてみるとやはり、日本のイメージは当時の私と同じ感じで、江戸時代ぽい感じの人達住んでる国を想像していた笑笑
日本についたら私は舞妓はんみたい髪型、着物を着ることになるのかあ、毎日大変そうて思ってた
のも今でも覚えてる
親にも聞いた覚えもある
普通に笑われたけどね笑
日本について見たら案外普通の人が沢山いて、安心したけど、少しは着物を着て見たいという気持ちがあったから少しは内心、残念と感じた
飛行機✈️の中でほぼ、1日を過ごし、やっと日本についた頃には大雪が降ってた
私達からしたら雪❄️は初めてのことで、空港で待っていた父と合流し、家に着いて早速着替えて外で遊んだ
初めての雪はすごく感動した!
まだ小さかった私と兄弟は雪☃️はどんなものかは知らなかったし、私の勝手なイメージだけど綿飴みたいなのを想像してた
かるくて、食べたら甘い感じ
結構バグってたな私 笑
ブラジルはほぼ一年中が夏に近いから、雪は絶対に見れないし、想像できてなかった
それを日本に来て初日にいきなり体験できて、はやく色んな季節を見たいな、という気持ちでいっぱいだった
ラーメン🍜を初めて知って食べたのもその日
おにぎり🍙を知ったのもその日から!
味噌汁とお茶🍵もね!
覚えてるのは当時、私はおにぎりの海苔、味噌汁、お茶の苦味がすごく苦手だった
納豆、イカ、寿司も全部だめだった
おにぎり🍙にいたってはもう、海苔を取って、米だけ食べることが多かった笑
おにぎりの中に梅干しが入ってるのもダメだったし、
一番困ったのは何日か後にコンビニに初めて一人で行った時におにぎりの🍙具に何が入ってるかわからなくて、適当に買ってはいつも外れていた…
なんだかんだで日本での生活を満喫しながら過ごし、
その一週間後に入学も決まり、私は小学校3年生の二学期から、弟は小1,妹は幼稚園に通うことになった
初日から私が一番ダメだったのは給食に出てくる牛乳🥛だった
ご飯も食べれるものが少なく、お腹を空かせることが多かった
そのせいでイライラすることが多くなり、言葉も通じなく、その苛立ちでお盆を全部床に投げ捨てて、家に帰ったっけ…家から学校が歩いて五分ぐらいだったし、すごく近かった
家着いてすぐ先生がきて、国際教室に連れていかれ、ポルトガル語が喋れる先生、担任の先生と私とで、話をして、何故あんな態度をとってしまったかをせつめいさせられた
当時の先生はほぼ、みんなものすごくいい先生で、面倒見もすごく良かった
今まで行った学校で1番好きな学校だった
この時からの生活は
〜外国人の私が日本に来た時〜❶
にあるのでまだそっちを読んでない方はそっちも読んで見てくださいね!
なんだかんだ日本を好きになり、いい教育も受けられたし、平和な生活を過ごしていた
日本語を覚えるよう、必死に勉強をして生活していた
もし、ブラジルに帰るとこになった時には、
その時までには今度は自分が大好きなお婆ちゃんに楽な生活をさせてあげようと、そういう想いで勉強をしていた
感謝したくて、楽な生活をして欲しい、そのために自分が日本語を覚えて、仕事を見つけて、お婆ちゃんのために何かをしてあげたいと、その気持ちでいっぱいだった
勿論、良い教育を受けさせてくれた親にも感謝の気持ち、お礼がしたいという気持ちもあったし、
何よりも産んでくれたことにすごく感謝をしている
この生活がずっと続くといいなと、毎日願った
けど、そんな甘くなかった…。
つづく