地域学 -旧三重県一志郡川上村の天然椎茸- | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記


《introduction》- なつかしい未来へ -

 過去に向けた眼差しを保つことから未来を見出そうとする試みを「未来へのノスタルジア」と言い表したのは、喜納昌吉という人の感受性によるものであろうが卓見であると思う。
 彼がこのコンセプトを提示した最初は、1980年に出版された対談本のタイトルでのことであるのだが、この年に、日本の自動車生産台数が世界第1位になって、NYの自宅マンション前でジョン・レノンが凶弾に倒れた。
 「もはや、戦後ではない。」という言葉から始まった上昇に転じた日本の景気は、バブル崩壊のブラックホールが持ち構えていることも知らずに我武者羅に坂道を駆け上っていった。
 だから、この日本中の津々浦々の村や町でも誰もが、テレビの中の都会風の生活を実現しようと一生懸命になっていたときに発せられた、「未来へのノスタルジア」という言葉は、先駆的であり予言的でもあったが、当時はまだ冷戦の余韻が残る国境の島であった沖縄は辺境で、そこから発せられた言葉は、多くのひとの耳には届かなかった。

 そして、それから少し経って、北の辺境からも、「異人論序説」というかたちの聲が発せられた。
それは、「東北学」を提唱した赤坂憲雄というひとからのものだった。
「東北学」は、出版という“本”のかたちで物質化する情報メディアになって、人間という生き物の普遍的でコアでディープな営みを記録したものとして残された。

 わたしは、この「東北学」の提唱が、今に云う“地域学”が注目されるようになっってきた“コト創め”だったように思っているのだが、その通りなのかどうかについて確証はない。


 地域を知ることによって、住民の何が変わり、住民にとって何ができるようになるのかと、昨今では、得られる結果や成果について性急に知りたがるけれど、それは、「何を変えたいと思っていて、あらかじめ考えた成果に対して、どこまでしつこく根気強く取り組めるのかというところに左右されるのでしょう。」・・・だから逆に、何も変わらず、何の成果も得られなかったら、それはやるだけ損だと思うのなら、最初から一切何もしない方がいい。

 端正に座してしづかに朽ちてゆくのも、最後まで乱れないという覚悟の上の事ならば、それはそれで十分に美しい。




《work up into》

地域学-002


 明治十年に、今の東京上野公園を会場に充てて8月21日~11月30日の期間で開催された、第1回内国勧業博覧会に、わたしの住んでいる食行身禄の里(旧三重県一志郡川上村)からも、出展していた人がいた。

 明治十年は、 明治九年四月十八日に、(旧)三重県と度会県が合併して、現在の形の『三重県』になってから、一年くらい経った時期で、それまでに地租改正問題から端を発して反対運動が騒乱状態にまで発展した東海大一揆(通称:伊勢暴動)が起きている。


 第一回内国勧業博覧会に、この川上村の地から出品していたのは、篠村七郎兵衛と云う人で 乾し椎茸を出している。

 川上村の椎茸は、川上茶と同様に、地域の名産品であった様子である。
地元の信頼できる人から聞いたところによれば、川上村の椎茸は自然菌に由るものであったと云うが、杉の植林と鹿と猿の食害によって既に廃絶してしまっている。
 雑木を切ってホダ木にして置いておくと自然に生えてきたとこのとであるが、それ以上のことはわからず、もうすこし詳しい事を知りたくて調べていたら、十年ほど前に出版された「なつかしい未来へ」現代農業増刊-農山漁村文化協会に収録された記事の中でふれられている部分があるのを見つけた。

 要約すれば、「椎茸の胞子は気温が17~18℃のときに飛ぶので、この時期を勘で計って、生木に鉈で切り込みを入れ、胞子をホダ木につける」のだと云う。
ホダ木を切り出す時期、胞子が飛ぶ時期を見定めるのは、すべて経験と体感的な見定めに依っている。…こういうことは言葉にできず、文字に記せず、盗んで覚えろ。!!…正にそのとおりである。
 養蚕でも、種から蚕が孵るとき。「あっ、きょう生まれる。」と体感的に判るが、きっと、そういう事なんだろう。
 わたしは、そういう知の体系をカッコいいよねと思うが、このようなあり方の「知」は、現在では、前近代的な知として、辺境に追いやられている。


、明治三十年代の、ある史料に由れば、伊勢産の乾し椎茸は、“火力に據り乾燥するもの多し”ということや、品質は厚造(肉厚)で支那貿易を目的として生産されていること。…などが記されていた。また、製品の集積地は松阪で、飯高郡・度会郡で多く生産されていたのだそうだ。

 後になれば、乾燥法などにも改良が加えられて、効率よく良い品質のものがでいるような十二分な配慮が加えられてゆくが、一志郡川上村の篠村七郎兵衛が行っていたのは、時代的にシンプルな天日乾燥か火力による乾燥法であったであろうと思われる。
 三重県で行われていた火力乾燥法の一例を挙げれば、以下に示す図-01のような、焚火を中心にして、円形に串に刺した椎茸を並べ、均一に乾燥するように管理できるように考えられている方法が用いられていた。



 
 いままで、意識してみたこともなかったから、椎茸も、生糸や茶に並ぶ三重県産の輸出品のひとつであったということに驚いた。

 偶然、篠村七郎兵衛が乾し椎茸を製造していた場所の小字の名がわかったので、地元の人に聞いて見たら、三峰(みうね)山にほど近い、最も奥のあたりだと言う。
 「なぜ、そんなところで…。?」と、最初に聞いたときには、しっくりとした納得ができなかったのだけれども、だんだん自然菌を用いた天然椎茸栽培のことが理解できてくると得心がいった。

 現在、ほとんどが植林された杉で占められている川上の山々ではあるが、一志郡川上村であった当時は、雑木に覆われて炭焼きが盛んに行われていた。
 炭焼きは、切り出した原木を集めやすく、また、製品の炭を運び出しやすい場所を見定めて窯をつくる。
 炭焼きの雇用で、他所からも人が入ってきて、多くの窯が築かれていたし、火加減の管理もあるから、仮の生活の場でもある。

 現在では、山に入っても人と出会うことが稀ではあるが、当時は、山は人で賑やかだったのだ。

 何らかの“体験学習プログラム”で、示されるものは、多くの場合、リアルなフィールドから切り抜かれ、バラバラに分類された“営みの一部”であるから、それらから想像するとなると判り難いなと思うけれど、用材の切り出しも、炭焼きも、篠村七郎兵衛が行っていた椎茸の自然栽培と乾し椎茸作りも、また場所によっては山繭の養蚕や山葵の栽培も、・・・“山仕事(山での仕事)”という営みの一部であって、季節の廻りに合わせて、順次行われる作業であったのであろうと思う。
 だから、有機的に結びついて連続するから、全体としては合理的に機能しているというような印象がある。




 上に示した、図-02右側に載せられたような「刻み鉈」と呼ばれる片刃鉈を用いて、図-02左側のように、原木に刻みをつけるようにすると云う。
 この図に示されたように片刃鉈を、一志郡川上村では「番頭鉈」と呼んだと聞いたことがある。
番頭鉈とは、旦那衆(山地主)の山を管理する番頭が用いる鉈で、木に印を付けることに使ったから、そのように呼ばれているとの事であった。
「刻み鉈」は、同様のものの別称だとは思うが、確認できたわけではない。

 旧三重県一志郡川上村の天然椎茸は、炭焼きのための雑木の切り出しと作業的には相関性が高かったものと思われる。

 また、天然椎茸栽培は、旧暦9月の節句(重陽の節句)に菊花が咲く年を季節の廻りの正しい年とし、この年の秋の土用の五日前から、土用後の十日くらいまでの間に、原木を伐採するのが良いとされ、これを「きりしゅん」と呼んだそうだ。
 この「きりしゅん」は、旧暦9月の節句より前に菊花が咲けば、秋の土用より、もっと前の時期になり、逆に菊花が咲くのが遅ければ、秋の土用より、もっと後の時期になる。

 あるいは、別に、「きりしゅん」を見定める方法もあって、原木として伐採しようとする木の真下にたって、木の穂先のの方を見て、木の葉っぱの全部が緑色から変化が始まり、そのうちの三割が黄色を帯び、七割がまだ黄色く黄葉していないが透明になったとき、本当の「きりしゅん」だということである。これを俗に「葉が照る」と云うそうだ。

 この他にも、樹液から見分ける方法など、いくつもの「きりしゅん」を見定める方法がある。

 このように示した「きりしゅん」を見定める方法は、「コナラ」のものだが、「シデ」、「椎」など用いる原木の種類によって、それぞれ「きりしゅん」を見分ける方法や時期が違っている。

 三重県下に於いて、自然菌による天然椎茸栽培に用いられた木の種類は「コナラ、オオナラ(楢の事か。?)、シラシデ、アカシデ、シラカシ、椎、栗、ウバメガシ(バベ)、アカカシ、オオカシ、クヌギ、サカキ、イヌブナ」などである。

 そして、山の、山頂、中腹、麓の、どの位置で、椎茸が発生しやすいのかと、個々の山の環境によって生じる違いを見定める方法や、原木を置く場所によっての組み方の違いや、とても興味深かったのは、原木にする木の種類によって原木を置く環境や組み方が違っているいう点だ。(図-03)



 三重県下では、一般に椎茸栽培の原木のことを、椎茸木や「ボタ木」と呼ぶようであるが、旧三重県一志郡川上村の篠村七郎兵衛が行っていたような自然菌による天然椎茸栽培では、原木(ボタ木)を選ぶにしても、伐採するにしても、それを置くにしても、山全体の自然環境や生態系に通じていないと、とてもできることではないと思うが、それだけに言葉にできない山の豊饒に打ちのめされる。

 また、その豊饒が現実的であるが故に、「山ノ神のくだされもの」という言葉が、観念的なところから生まれたものではない“真実”であることを裏付けている。

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 前述の「有機的に結びついて相関し連続する民俗知が創り出す全体としての合理性」にまつわる一志郡川上村での別の例として、「杉葉粉」の生産がある。
 「杉葉粉」は線香の原料として出荷し現金収入を得る産物として川上村で盛んにつくられていたものである。
 つまり、杉の葉っぱを石臼で挽いたものであるけれど、「杉葉粉」をつくるために、杉の枝を切り葉を集めてくるということではなく、森林の管理で枝掃いした杉の枝を集めて、葉っぱは杉葉粉に、そして枝は焚き付けの薪に…、というように、ひとつの事が他の生産作業の何らかの役割を担っているというような関係になっているので、ひとつの事だけを切り取るわけにはゆかず、山というフィールド全体を用いた生産活動の経験から得られた知識が鏤められているので、ひとつ生産作業を行う上で、その前提となるのは、「山について知り尽くした知識と経験」である。

 だから、そういう事がなければ、とてもできることではないという、複雑系的な難解感が伴うのである。

 けれども、それを、ひとつひとつバラバラにして行うと、すごく効率が悪いことになるのじゃないかと直感的に思うのだが、どうだろうか。
また、それには、強力な磁石に、いろんなものが吸い寄せられてくるような、面白さがある。


《system reconstruction》-なつかしい未来は存在するのか。?-


 旧三重県一志郡川上村は、現在の三重県津市美杉町川上である。

 今から、137年前の第一回内国勧業博覧会に乾し椎茸を出品した、篠村七郎兵衛が行っていたような自然菌を用いた天然椎茸栽培は、最早この地には無い。
 ただ、もしかしたら、一部の残った雑木がある辺りには、椎茸の自然菌が今も存在しているのかもしれないが、市場経済のエンジンの唸りやテレビの音に掻き消されて、そのことを思い出す者もいない。

 そして、もし、137年後の今も、津市美杉町川上のどこかに、自然の椎茸菌が存在していたとしても、天然椎茸栽培を行っていた篠村七郎兵衛のような「山について知り尽くした知識と経験」を持っていそうな人は、二人ばかりいそうだと思い浮かぶが、その方たちも共に高齢である。

 「山ノ神のくだされもの」を貧しいと感じ、スーパーマーケットの発泡スチロール容器に盛られたものを豊かだと感じた時代が奪っていったものを、懐かしむことでできる人の数よりも、そうしたものが存在したことさえ知らない人の数が大幅に上回っているというのに、この先、「なつかしい未来」など訪れることがあるのだろうか。?…と疑うが、それでも、この「なつかしい未来」と云う言葉は、凄く魅力的だ。

 進んでいるのか戻っているのか。解決しているのか混迷を深めているのか。進歩的なのか古臭いのか。豊かなのか貧しいのか。賢いのか馬鹿なのか。……未来なのか過去なのか。
座標軸がグネグネ歪み、方位磁石がグルグル回り、時計が止まって季節の廻りがぐちゃぐちゃになっている現在をいいあらわすには、過去と未来がぶつかり合い混ざり合った、不安定な安らぎを持つ、この「なつかしい未来」と云う言葉が的を得ている。

 自然との共生と云うようなことが謂われはじめて久しいが、わたしたちの手には自然と共生できる技術が宿っているのだろうかと考える。
 少なくとも、137年前にこの土地で生きていた篠村七郎兵衛というひとの手には、それが宿っていた。
 里山の再生、生態系の維持と再生、自然との共生とか、いろいろ言うけれど、生態系と利用し利用される関係が途絶えた営みのなかで、それらは何処を目指して進むのだろうか。?

 もちろん、今とは通貨交換のレートも全く違っているから、今を語る切り口になり得るのかどうかも疑問だし、その先に、「なつかしい未来」があるのかどうか、わたしには全く予想もつかないけれど、篠村七郎兵衛の時代には「自然菌を用いた天然椎茸栽培が、輸出椎茸の生産を担っていたという事実を、今省みて考えることは無駄ではないように思う。」


旧美杉村内よりの第一回内国勧業博覧会出品者