生糸改會社 | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記



 上に示したものは「明治六酉年五月」の日付が記された上州高崎生糸改會社から製絲業者に向けて出された文書であるが、各生糸生産の場から輸出生糸を出荷するにあたっての製品の仕立て方を示したものである。

 このような生糸改會社というものが生糸の各生産地ごとに設けられ、各生産地の生絲改會社は明治六年生一月十日に定められた「生絲改會社規則」に沿った各社ごとの生絲改會社規則を策定し、それに準じて生糸生産者は一様に該当する地域の生糸改會社を通じて横浜生糸改会社に出荷した後、輸出取引が行われるシステムに「大蔵省 第十三号布達(明治六年二月十二日)」を以って改められた。


 このような事が必要になった背景には、座繰りによる新興製絲勢力の粗悪濫造生絲が、日本の生絲の信用を失わせたからだ。
特に賃引きによる生絲は、ひどいものだったようで、「生絲改會社規則」では、賃引き絲には生産者の個人名が特定できるように製造人の名を明記なさしめて印を押すようにしている。

 「悪貨は良貨を駆逐する」 …という諺があるように、投機的に動いた中間の問屋層や、繭を買い集めて粗悪生絲の濫造による儲けを目論んだ事業者、そして、賃稼ぎの儲けのことだけを考えて粗製粗悪で出来高稼ぎをした生産者などより、実質的に最も大きな打撃を被ったのは従来から機場に結びついて優等な生絲を引いていた既存の生絲生産者であったのだろう。


『かつての「株仲間」がもっていた営業独占にともなう弊害ではなく、自由競争原則の急激な創出にともなう「弊害」であった。それ故に、このような「弊害」を除去するには、株仲間的な、限定された同業者集団による独占的営業形態に代わって、加入制限がなく、自由に販売競争がおこなわれ、かつまた取引にともなう信用が保証されうる制度乃至組織が必要とされたのである。しかし、そのような組織はすぐに生まれてはこない。』
…以上「明治前期における同業者組織化政策」-「同業組合準則」をめぐって- 白戸伸一 [明治大学大学院紀要 商学篇10-Feb-1980・明治大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10291/11305]より抜粋の上引用

 江戸期までは、専門的な職能集団や営業を営むもの同士が、同業者集団「株仲間」と云うようなものをつくって、独占的営業権を担保していた。
また、幕府の治世と積極的に結びついて、専売的な権利を得ていた「座」というものもあったし、各藩では、名称はそれぞれ異なるだろうけれど、産物の生産や販路に結びついた、同様な同業者組織があった。

 「資料に学ぶ静岡県の歴史」-静岡県立中央図書館-さんのサイトの中にある、「江戸時代の株仲間の役割~安定供給と物価~」には、“天保の改革で株仲間が解散されていたが、1851(嘉永4)年に株仲間の再興令が出される。そこには「株仲間を解散させたが、『以来商法相崩、諸品下直に不相成、却て不融通之趣相聞候に付』(それ以来、これまでの商売のやり方が崩れ、物価は下がらず、かえって上手くいかなくなったということなので)このたび、株仲間を復活させることにしたということが書かれている。”と云う興味深い事例が示されている。



 そして、「東京商法会議所の設立と明治前期の流通政策」浅田毅衛…には、江戸期からの伝統的な「株仲間は明治3(1870)年 から明治6(1873)年にかけて、府県令をもって、逐次解散が命じられ株仲間制度の長い歴史は終った。」というように記されているから、やはり単純に上意下達では進展しなかったのだろうと想像できる。
 結局、明治前期の生絲輸出にからんで、明治維新によって伝統的な秩序が破壊され、その間隙を縫って無秩序に生絲生産や取引に新規参入者が加わってきた事によって、江戸期に出された株仲間廃止令の時に起こったのと同じような国内的な混乱が、この時代でも起きていた。
 
 明治六年十二月十八日大蔵卿大隈重信の名で出された第百七十九号「生糸改会社ノ儀心得方ノ布達」(府県布達)では、生絲改會社設立の意義と主旨を説き、また「畢竟協同立會之主意ヲ以テ設社候儀ニ付會社ヘ加入ハ各自勝手ニ可有」とも言い、その自主的な運営と自由意志による主体的な参加にも言及しているが、同布達の全文は上から下への強権による布達というような性質のものではなく、噛んで言い含めるような感じがする内容となっている。
 これは大隈重信という人間の個性に依るものなのだろうか。?それとも明治政府のイデアによるものだろうか。?

 「自由」とは何か。? 「フェアな自由競争」とは、どうあるべきか。?

 そういうところが、この約140年ほど前の時代も、現代と同じように、これらが社会的に大きなテーマのひとつであった。

 「生絲」と云う問題に絞って云うと、一般には当時の日本は技術的に稚拙であったので・・・というように理解されているのかも知れないし、「だから、富岡製絲場のように、西洋の製絲器械の技術を導入する事によって、いい絲がつくれるようになった。」と「西洋の製絲器械の技術の導入」と云う問題も関係して来ると思われる向きもあるかもしれないが、ファクトリーオートメーション(Factory Automation)などはもっと先の未来のことであったから、繰絲という作業に限って云えば、それは作業の主体が、人から機械に移り、「器械の運転のペースに合わせて、人が作業する。]と云う違いにつながっただけの、依然として skilled manual dexterity-熟練した手技- に依存した性質の強いものであった。…と、このように事実だけを書けば、随分と味気のない話になってしまうけれども、これを生絲生産という分野に限定されない広い産業分野でのファクトリーオートメーションの完成に向けての過渡期のプロセスだと考えれば、これは壮大な技術発展の物語の中のひとつのエピソードである。

 つまり、この明治六年当時の問題の核心は、「技術的な問題」になく、多くの場合はアウトサイダー的な座繰絲の新規生産者や、それらをオーガナイズしていた仲買や問屋のモラルハザードにかかわるところが大きかった。

 前述の“大蔵卿大隈重信の名で出された第百七十九号「生糸改会社ノ儀心得方ノ布達”は、その辺りの、いわゆる生絲業界に対して、生産者モラル、流通モラル、商取引のモラル等を自浄的に確立するように促すところに苦慮している事情を伝えたモノのように思われるが、当時も、そして今も、西洋的な価値観のなかの自由というところについて、…つまり、「フリーダム」と「リバティ」のかかわりと、相違と、そして、制度的な「リバティ」の確立について、日本の中で未だに定位できずに揺らいでいるところにコレは深くかかわってくるのだろう。

 当時の明治政府が、「自由参加で、自主的に運営されている民主主義的な同業者団体」の設立を目論んで、官主導でつくろうとしたこの生糸改會社の組織に対して、駐日英国公使ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes)より「貿易の自由を侵し通商条約に違反する」という趣旨の申し入れが出されている。
 この背景にはやはり、日本の主力輸出物であった生絲や絹織物(白物)が、「半製品」であって、もともと、「半製品の生産」というところは、エンドユーザーにつながる製品の生産から見て“効率よく生産する為の精製された原材料の生産”を担うところで、エンドユーザーにつながる製品の製造者からいうと、「高品質なものを、最も安い値段で入手できることが望ましい。」ということだし、もし製造調整的な操作が必要なリスクが生じたならば、「半製品の生産」をすぐに切り捨てられるような関係に置いておくのが理想的だし、好景気で需用が鰻上りになったときには、他社に「高品質なものを、最も安い値段で入手できる原材料生産拠点」を奪われないように、資本や融資や様々な要素で確実に囲い込んでおく必要があるというような構造がある。
 このような、エンドユーザーにつながる製品の製造者から見た理想的な条件は、それを受け入れなければならない立場から見ると、「全く、矛盾に満ちたものであるし、ハイリスク=ローリターンの仕事でしかない。」
 根本的に、「世界で優秀だといわれた日本の生絲や絹」の舞台裏には、このような状況が同居していたというところがある。

 つまり、英・仏・蘭・独・伊・露・米などの欧米諸国からでは、自国が独占的に原材料生産拠点の日本に対してどのように影響力を強められるかと云う点が興味の対象であったし、有利な取引を持続させるためには、日本側の生絲改會社の設置が価格カルテルをつくろうとしている可能性に結びつく点が危惧されるので、好意的には受け入れられなかったのだろうと思う。
 同時代の出来事をつづれば、イギリスの貿易商であったジョン・ハートリーは明治5年から明治26年まで、確信犯的に阿片(アヘン)の密輸入を企て続けていたし、いわゆるマリア・ルス号事件なども起きているような当時の国際情勢のなかに、日本の生絲輸出もあった。
 例えば、国際法として奴隷条約(Slavery Convention)も未だ結ばれていない時点のマリア・ルス号事件での日本の対応は、随分なリスクをとったものだと思うが、結果的には日本にとって良い結果に傾いた。
 マリア・ルス号に乗せられていた中国人奴隷に対して、介入すべきでないと判断した江藤新平や陸奥宗光は、西洋事情に通じているだけあって正確に判断していた。しかし、国学者でもあった副島種臣は、「人の道に即しておかしいものはおかしい」と云うところから介入を論じていったのだが、その背後にはイギリス及びアメリカの意図が働いていたところも見逃せない。



また、このマリア・ルス号の問題解決の過程では、日本がいう人道的見地というところの介入資格にについて異議が出された。なぜなら、当時の日本には「人身の売買」を禁じる法的な整備は整ってなく、英国人代言人ディケンズより「日本にも遊女という人身売買が存在している」とその矛盾を追及された。そのことがきっかけとなって、明治五年十月二日に通称芸娼妓解放令と呼ばれる太政官達二九五号を布告することにつながってゆく。
 こういうところも、後々の製絲女工の労働契約や地位について何らかの影響を与えているのだと思われるけれど、ここではそれには立ち入らない。

 このような生絲改會社の設置の前後に散見する様々な欧米諸外国とのかかわりの中で、これを見てゆくと、一口に欧米の文化や価値観や技術の受容と簡単に言うことはできず、その欧米諸国も、一つの共通した明確なコンセンサスにがあって日本に接しているのではなく、それぞれの思惑やそれぞれ相互の利害関係が錯綜する中で、日本の生絲輸出が取りざたされている事がわかる。
 考えれば、この当時は、デニールという単位も国ごとにその示すところに相違があるような状態であったから、「何か、国際的な明確な基準があって、それに照らし合わせて、良し悪しや品質の価値が評価された」という訳でもどうやらなさそうである。
 だから、この当時の輸出生絲の良し悪しや品質についての評価は、その時期の主たる輸出先の国の価値に即したものであったろうし、多く買い付ける商社の主な取引先の機業が要求するところでもあったのだろうから、一定ではなく、やはり揺らぐものであったと思われる。

 わたしのように機織をする側からこれらを見れば、このような影響が、どのように日本の伝統的な織物にバイアスをかけていったのだろうかというところが興味深いところです。