「藁圍蠶室」-三重県の蚕室 | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記



 明治廿四年に三重県内で出版された蚕書(養蚕書)に「藁圍蠶室」というものが掲載されていた。

 この蚕室のプランは、「(養蠶を始めたり、飼育規模を大きくしようとする場合に於いて)單に養蠶の目的を以て殊更に一家を新築するか如きハ則不可なり何となれは経費の消却容易ならずして大に養蠶の利を殺くの不経済を免かれされはなり。」と述べた上で、「養蠶をなさんと欲する場合に於いても又成へく不便を堪へ只其天井と屋根とに空氣抜を設け障子莚簡等を用意して空氣の新陳代謝と氣候の激變とに備へ成へく室内の温度を調和するの工風を用ゆるのみにして足れりとす。…(中略)…簡便にして養蠶に適するの家屋を與へんと欲し…(以下省略)」というような見地から立案し試験されたもののようである。

 同書が説く様に、蚕室は養蚕が営めるような機能的な条件が備わっていればいいのであって、それ以上の設備を備えたことさら特化した建物を仰々しく設けたところで、それに見合う利得が得られるのかと云うところや、そこに投入した初期投資を回収してしまうまで純然たる利益は上がっていないのだという視点に立てば、その点は最も合理的に判断すべきところであるというような経営的な示唆を与えた上で、図1及び2のような建築費を極力抑えた藁葺きの規模の小さい蚕室を提示している。


 「藁圍蠶室」の図-02を視ればわかるように、部屋の中央には炉が設けられ、棚飼いの棚の柱から柱までの間隔を約一間だとすれば、建物の奥行きは二間強の見当である。
 そして飼育量をもっと多くしたいのならば、この蚕室一室を、ひとつのユニットとして考えて、ユニヴァーサルに横へこの小さな蚕室を必要なだけ増設するように設計すればいいのである。
 また大きな一室で大量に飼うという大雑把なやり方よりも、隔壁で隔てられた小さな蚕室毎に室温の管理などを行った方が管理が容易だし細かな対応が行い易い。

 もちろん、この「藁圍蠶室」は、要点の検証を経たプロトタイプモデル(prototype model)だから、この形をそのままコピーしたものが画一的に奨励されて広まったという事ではなくて、同書の説くところは理に適っていると、その要旨を咀嚼した人たちが自分の作業プロセスの中での使い勝手や加えて改善したい条件など、様々な個々のニーズを加味してそれぞれのスタイルにしていったものであろう。そして、それが同じような飼育条件下にある“地域”という広がりで捉えれば、地域的なスタイルというものが自ずからできていったのだろうと想像できる。

 そして、その想定した受容プロセスの仮説を直接的に裏付ける訳ではないが、随分以前に記事にした
「三重県の養蚕農家の家屋・ー 旧一志郡内 ー」で紹介した地域の蚕室建物などは、元々は上簇室であったと思われる二階家部分が加えられているもののユニット的な小室に区切られた飼育室の構造は、この「藁圍蠶室」のアイデアを踏襲しているように想うので、「藁圍蠶室」からの影響関係を考える上では興味深い。


 同書が著された明治廿四年頃の、三重県一志郡に於ける「繭・生絲」の生産高は、それぞれ「繭…1,774石/25,168円」.「生絲…428貫/11,765円」 であったが、その五年後以降の推移をみてみると「繭の産高は…明治廿九年/4650石.三十年/5720石.三十一年/6823石.三十二年/8001石」と旧一志郡の養蚕は飛躍的に成長している様子を窺うことができる。
 だから、この「藁圍蠶室」と云う蚕室のプランは、初期投資を抑制することによって、新たに養蚕を手がけようとする者に対しては参入への間口を広くしたし、また規模を拡大してゆきたい者に対してはその決断を容易になさしめて、かつ事業拡大にかかわる追投資の回収をも容易にする効果があったものと思われるし、繭生産量とその繭を原材料とする器械製絲場の関係は互いに複雑に影響し合うものではあるが、明治十九年に一志郡最初の器械製絲場である一志郡多気村 斉藤製絲場が操業を開始したということが一志郡の繭生産量を引き上げてゆく上で牽引的な引き金となったであろうことは十分考えられるところである。そして、その斉藤製絲場の背中を追うようにして、明治廿六年には一志郡高岡村に高岡製絲場。廿七年には太郎生村の中井製絲場。廿八年、豊田村林製絲場。廿九年中原村鈴木製絲場、大三村丸三製絲場、大井村前川製絲場、波瀬村波瀬製絲場。と、旧一志郡内では器械製絲場が次々と操業を開始した。

 繭生産量のキャパシティと製絲場からのニーズが、追いつ追われつ後へ先へと、まるで子犬が睦まじくじゃれあうように、順調に上昇線をたどったこの時代は、良き時代であったのだろう。

 加えて敢えて又、そのところについて逆方向から述べるならは、……
そういう幾多の器械製絲場が操業できるような一志郡の繭生産量のキャパシティを作り出すことを陰で支えて貢献したのは、この「藁圍蠶室」という形で顕わされた、ローコスト・ローリスクな養蚕を心がけるという順当なビジネスモデルであるような気がするのです。

 蚕室の形から窺うことができる養蚕の思想というような視点もあるように想いますから、そういう面も見逃さないような知の嗅覚を持ち続けたいですね。