山村の朝は、山の上の方からやってくる。
山村とは言っても、山の中腹部以上のところに展開する山岳集落や、川の流れに沿って展開する谷間の村など、さまざまな立地や背景があるから、そんなにひとくくりにできるものでもないが、“山の暮らし”について馴染みが薄くなった都会から見れば、“ひとくくりに山村として捉える他はないのだろうな。”
カク云う、わたしも、都会から移り住んだ人なのだけど、最近では、山の暮らしにすっかり馴染んでしまっている。
二十歳代の頃は、いろんなところに行きたかったし、いろんなこともしてみたかった。だから、縁をたどって、いろんなところにも行ったし、いろんなこともしてみた。
けれども今は、限界集落化してゆく谷間の山村の壺中天を仰ぎながら、蚕を飼っている。
昨今の世情の動きの激しさは別世界のできごとのように、壺中天の世界では平穏な日々が流れてゆく。
その平穏な日々に潜んで、壺中天の世界を静に蝕んでいるのは、過疎・限界集落化と集落の高齢化という問題なのですが、これは、ある時期を境に加速度的に深刻になってきたと感じます。
少し前の事にはなるが、朝日新聞の論説委員をなさっていらっしゃる六郷孝也さんが、うちのblogに書いていた『志摩の「煉化石」』と云う記事からたどって突然訪ねて見えられた時に、「なぜ、いまさら養蚕を始めたのか」というような話になった。
そもそも、六郷さんがいらっしゃったのは、わたしどもが紹介していた情報が、研究者にも知られていなかった情報であったということで、わざわざ名古屋から美杉にまでおいでいただいたのですが、・・・なぜ、機織をしている工房のblogに、明治の「煉化石(煉瓦のこと)」というようなことを調べて記事にしているのかにも興味があったようです。
それで、わたしどもが興味を持っているのは、明治の頃に日本で何が起きたのかと云う点で、そこを起点として、養蚕や製絲や機織の技術や価値観が、どういうふうに変化していったのかと云うところなのですが、その周辺を調べていたら『志摩の「煉化石」』の事に行き当たり、明治の一瓦職人 竹内仙太郎が、三重県飯高郡岸ノ江村(明治22年に三重県飯高郡鈴止村)の瓦工房で技術を習得した後、どのようにして煉瓦製造という西洋技術と出会い、それを受容していったのかというところに興味をもったということなどを簡単に説明した。
産業史を辿って幾多の記事を書かれていらっしゃる六郷さんは、うちの養蚕の話を聞いて「まったく、世の中の流れと逆を行っていますね」という。
それに応えて、わたしどもは、「いえ、最先端ですよ。 Independentの立場では・・・。」と言った。
そして、「たとえ、世の中が滅びようとも、うちは養蚕をやっていますよ。」と言うと、「それ、いいですね。」と応えて、六郷さんが笑った。
まったく、壺中天の世界のうちだからこそ、楽しめた会話の一コマでした。
谷間の山村では、朝は山の上からやってきて、
夕方には、山の稜線を輝かして、還って行く。
自然の営みは変わりなくとも、人の営みだけが変わってゆく。


