異体文字 〝 Kannji's-Variant characters 〟No.1
さて、山ノ御神 -iconografia giapponese- vol.1で、述べてきたつづきですけれども、男女一対の山ノ神の像が描かれた神影軸には、上掲のような文字が記されている。
「山神」と墨書されているのだけれども、こういう風変わりな漢字を、わたしたちは普段使わないし見かけない。 しかし、古い文書や祈祷札や、霊符や護符と呼ばれる類のものの中には、このような旧字体ではない判読不明の漢字や、文様のような複雑な文字が記されている場合があって、それが面白くもあるのですが、しかし、辞書や資料にさんざん照らし合わせた結果、それでも読み方や意味が釈然としない場合も出てくるので、そこが悩ましい。
わたしは、文字や書のことについては、そんなに詳しくないので、標準的な字体からも大きく離れた、このような異体文字の成り立ちや、そこに籠められた意味などについて詳らかに言い表すことはできないのだけれど、とにかく、様々な字があるものだと感嘆する。
「ひとは、文字から何を感じ取り、また、文字にどのような思いを籠めて接してきたのだろうか。?」
このような異体文字については、“誤記”や“省略”から始まったという事も説かれるが、しかし、調べてみると、あえて古体の文字を意識しているところも感じ取れる。また、それらの内には、それは全く見る側の主観によって感じ取れるだけというような領域に留まるけれど、「何らかの意味を籠めて意図的につくられたものに違いない。」と、観察できるものもある。
しかし、現代の日本という場に生きる一人として、率直に言うなら、清代の字典である「康熙字典」を観ていても、現在では、そのように細分化された字の意味を汲み取ることが難しいと云うように感じる。
この「山神」と書かれた墨書の「山」にしても、下に示すような篆書体や隷書体の字体のヴァリエーションなのだろうとは想像できるが、わたしが不明して知らないだけなのだろうけれど、この文字について、それ以上の手がかりは、なかなか得られなかった。
また、「神」と云う字にしても、下に示したような異体文字が使われている。
このように「山」という、わたしたちが誰でも知っている文字のひとつを採り上げてみても、文字の世界は、わたしたちが習ってきた漢字の世界からは、想像を超えて、はるかに遠い位置にあることを思い知らされる。
山ノ神の信仰というようなものは、いわゆる民間信仰の最たるもので、位を持った神職などが介在しない場合が多い。
そのような無知蒙昧な民が祀る場で用いられるような神影軸の文字に、さほど深くこだわる必要もないと考えれば、「この文字は“山”という字の異体で、昔は、こういう変わった文字が使われていました。」という説明で、自分を納得させることもできるでしょうが、やっぱり、無闇矢鱈と虚仮威し的に、「難しそうな字にした方が、ありがたみが増すものだ。」というような理由で、字体が選ばれた訳ではないだろうと考える方を執りたいものだと、そのように想っていたら、「山」の異体文字について、ひとつの事を思いついた。
【亼】
清代陳昌治刻本『說文解字』
【卷五】【亼部】亼
三合也。从入一,象三合之形。凡亼之屬皆从亼。讀若集。秦入切〖注〗臣鉉等曰:此疑只象形,非从入一也。
清代段玉裁『說文解字注』
三合也。从人一。象三合之形。許書通例。其成字者必曰从某。如此言从入一是也。从入一而非會意。則又足之曰。象三合之形。謂似會意而實象形也。凡亼之屬皆从亼。讀若集。秦入切。七部。
つまり、まるで判じ物のようなのだけど、この「山」の字は、【亼】と【从】をあわせてつくった「陰陽三合」を意味する文字ではなかろうか。?
そのように想起すれば、『楚辞』天問の中の、次のような一節の存在に心が惹かれる。
このような、『楚辞』天問に詠まれたような、根源的な陰陽の和合にかかわる智慧の原風景を、山ノ神信仰の祭儀の中に見て取れるから、そのような意図が、この文字にも籠められているのではなかろうかと、わたしは考えたのです。