“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産2-2 | ーとんとん機音日記ー

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三重県旧一志郡多気村の製絲場2-二つの史料の齟齬-

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「“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産2-1」>のつづきです。

「“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産2-1」では、基礎的な資料とされているような、信頼できると考えられている二つの史料があって、その二つの史料の中で、この“A製絲場”について記されている内容が、矛盾していると受け取れるようなことになっているので、悩んでいると言うところまで記しました。

この二つの基礎的な資料とは、「明治27年 三重県勧業年報」と、明治28年に国が行なった統計調査の史料なのですが、前者では、この“A製絲場”について、〔職工人数:男/2,女/28・蒸汽力:機関数/1,公称馬力/8.0〕と記し、付記に、「一志郡“A製絲場”及ビ山田郡大森製絲場ハ、蒸汽機関ノ外、尚ホ水車ヲモ兼用ス(原文ママ)」と記載されておりました。

しかし、後者の国の統計史料では、この“A製絲場”について、〔釜数/25,繰湯ノ別/蒸滊,運轉ノ別/水力,繰籰ノ別/再繰〕となっております。

わたしが齟齬だと考えている部分は、この“A製絲場”の動力にまつわる部分です。
つまり、「三重県勧業年報」が記すように、「蒸汽機関ノ外、尚ホ水車ヲモ兼用」と云うのが正しいのか。? それとも、国の統計史料の「運轉ノ別/水力」というのか正しいのか。?・・・と云う点です。


ーとんとん機音日記ー-明治の製絲場



結局、ただ考えていても先に進まないので、この二つの史料の確かさを検証してみることに着手しました。「三重県勧業年報」には、明治27当時、三重県内に在った、職工数十人以上の製絲場が69ヶ所リストアップされています。そこで、先ず、それら全部のドキュメントを他の地域史資料から抽出することを行いましたが、全く情報が得られない製絲場も数多くあります。
それに、地域史資料は持ち出し禁止ですので、図書館まで出かけて行ってコピーする作業が、なかなかたいへんでした。

そして、その上で、前述の国の統計史料から、三重県内の製絲場全部を抽出して、「三重県勧業年報」に記載されている製絲場と、ひとつひとつ対比してゆく作業をつづけました。

こういう作業は、とっても根気が要りますけれど、興味深い内容を記している書誌との出会いがあって、それはそれで、楽しい部分も多いのです。


その結果、「三重県勧業年報」には記載されていて、国の統計史料には載っていない製絲場や、また逆に、「三重県勧業年報」には載っていなくて、国の統計史料では記載されているというような
製絲場が幾つか存在することがわかりました。

明治27年の「三重県勧業年報」と、明治28年の国の統計史料では、自明の事ながら、約一年の期間の隔たりがあります。
だから、明治27年の調査の当時では操業していて、明治28年の国の統計史料の調査の以前に廃業したという事も、可能性としては有りますから、「三重県勧業年報には記載されていて、国の統計史料には載っていない製絲場」の存在を、そのように捉えれば、論理的には矛盾しません。
また、逆の「三重県勧業年報には載っていなくて、国の統計史料では記載されている」という製絲場の場合、この約一年の“調査のズレ”の期間に、新たに起業したということなら、この場合も論理的には矛盾しません。しかし、このケースに含まれる製絲場の起業時期に着目して確認しますと、明治27年以前の起業となっているものがほとんどだと言うことに気付きました。

そこで、「三重県勧業年報」の内容には、抜け落ちている事が多いのでは、という感想を抱きましたが、しかし、この史料は、製絲工場の持ち主の氏名の項があるなど、他では得がたい情報も含まれているので、捨てがたいところもあるのです。


o(_ _*)o すみませんが、・・・また、次につづきます。

ーとんとん機音日記ー-福寿草