今朝も家を出て駅までの道を自転車で走る。
国道沿いに死んだ猫。
ご存知の通り僕は幼き頃から猫と生活を共にしてきた。
辛そうな顔をしていた。
毛並みがまだ綺麗な猫だった。
子供の為に餌を探しに行く途中だったのか。
友達に会いに行く途中だったのか。
縄張りをパトロールしている途中だったのか…。
この国道を渡る行為が生死に繋がることだとは思っていなかったかもしれない。
「死」という漢字の読み方はただ一つ「し」だけだ。
一方、一番読み方の多い漢字は「生」だそうだ。
僕達は生きる上で沢山の選択をする。
その選択は人それぞれ無限に存在する。
あの時国道を渡るという選択は「死」という結果を招いた。
おそらく失敗だろう。
しかし唯一人間だけは「死」すら選択肢に入る。
知恵のある僕達は状況を判断し、選択する。
全ての行為に何らかの理由がある。
○○だからやれないのではない。
「やらない」という選択をしているのだ。
道徳的に、倫理的に健全ではないことはいくらでもあるがそれすら何らかの意味をもっての選択なのだ。
さて、目の前にある国道を僕も渡りたい。
ここで必要なものは過去の経験、そしてそこから得た知識だ。
「轢かれそうになった過去のトラウマのせいで恐くて渡れない。」
それは渡らないという選択を納得させる為の道具に過ぎない。
もし「渡らない」という判断をしたならばそこには「危険を犯したくないから」あるいは「歩くのが面倒だから」という理由が必ず存在する。
感情で人の行動は左右されない。
もしそうなら世の中のほとんどの人間が殺人くらいは犯しているだろう。
感情は道具なのだ。
まずは過去の経験と知識から横断歩道を探すとする。
無い!?
では轢かれない為に車が通らないタイミングで渡ろう。
いつだ!?
だったら国道の左右を見渡してタイミングを測ろう。
僕は猫じゃない。
うっかり轢かれて死んではいられない。
けどあなたのお陰で僕はまた一つ考えることができて、成長させて貰えたと思う。
ありがとう。
名もなき猫よ。
安らかに。
優