舞台「しろばら」はシェイクスピアの夏の夜の夢をオマージュした作品なわけですが、「しろばら」というタイトルの理由も大いなるテーマもあるわけです。
劇中の台詞に「若い娘がその命をこんなくだらぬことで失いたくはなかろう」とあります。
その後ハーミアは「こんなくだらぬこととは心外でございます!真実の愛に対してこんなくだらぬこととは!」と、すでにいないシーシアスに叫ぶのですが、「こんなくだらぬこと」と捉えるかそうで無いかはそれぞれの正義によって異なるわけです。何を大切に思うか、何を大義とするか、立場や精神によって異なるものだということです。
生きるということはこの選別の連続だと言うこと。
信念を持つ者とそうでない者も違うでしょう。命をどう捉えるかという概念的思考のレベルでも違うでしょう。
白バラ解放運動。ナチス政権下のドイツで平和主義、非暴力主義を掲げて反ナチス運動を行ったレジスタンス。
彼らにとっての命とは、生きるとはどんな意味を持っていたのだろうか。正義のために、一見同じ思考や主義を理解できない者からは「こんなくだらぬことで」と思われるかもしれないこと。それに命を賭けて戦った彼らの思いとは…
その思いに思考を巡らせ、彼らの事を紐解きたくなった僕が書き始めたのが「しろばら」でした。
生きるとは。
ただ漠然と寿命を全うすることも決して間違ってはいない。その一方で若く、20代前半で命を賭け、散っていったミュンヘンの学生たちがいた。
ゾフィー・ショルの享年はわずか21歳。ナチスによる取り調べののち、簡易裁判が行われ、その日に判決を言い渡された。数時間後に断頭台で処刑。
彼らがどう生きたのか、死ぬ間際に何を思ったのか。どんな夢を見たのか。
今を生きる僕がその際(きわ)を、命の際を覗きたくなったのは必然だった気がするんです。
舞台「しろばら」の大いなるテーマは「どう生きたか」…後悔と絶望の果てにハーミア(ゾフィー)たちが何を思い死んでいったのか。どう生きたのか。白バラ解放運動の詳細な活動を描写せずとも、その思想や価値観、精神は俳優を通して演劇となり、観客の心に何かを突き刺すことが出来るのではないか?僕はそう考えたのです。
戦争を描写する作品はいつも重い責任を背負っていると思っています。中途半端な覚悟では書けないしやっちゃいけない。知らないは罪だとさえ思っています。現代と過去を繋ぐことのできる演劇というツール。手軽なものでは決してなく、分厚く、重く、苦しく、切ない…だからこそポップに描かなければいけない。ずっと重苦しくてはいけないんです。ずっと重苦しいのでいいなら戦争のドキュメンタリー映像を観た方がいい。資料館で戦争資料を読んだ方がいい。その方がよりリアルでダイレクトだから。
ならなぜ演劇作品にするのか?
究極的には俳優が追体験することに意味があるからです。俳優というイチ人間が存在意義を賭けて「どう生きたか」を体験するんです。その体験を観て観客も共感を得る。そこに空間が生まれ、演劇の意味を成すのだと。死の間際に光はあるのか?救いはあるのか?絶望の淵で見えたものはなんなのか?こればかりはやってみなければ分からないんです。
確かに脚本の段階ではある程度の想像と思惑を持って書き上げるものです。が、俳優がそれを立ち上げる時、予想を超えた何かを体現した時、この上ない高揚感と衝撃を覚えます。俳優とはつくづく崇高な仕事だと思わされる瞬間です。
僕はその瞬間に何度も出会いたい。
舞台「しろばら」でそれが出来るかどうかは2024/10/20の千秋楽まで分かりません。が、先週から始まった稽古でもがき苦しみながらもやっと出た一雫の何かが、もしかするとそれの片鱗と成り得るかも…
僕たちが何を選び、何を目指し、何処へ向かうのか。
しろばらという船は大阪凱旋公演に向かって舵を切りました。この航海に嵐が待っていようとも、乗り越えた先に栄光が待っている。
なんて、深夜に書き綴るくさい文章に本音を盛り込み、きっと明日朝に読み返すと笑ってしまうんだろうけど、今感じている熱い想いは残しておこうと思うので…これで今日はおしまい。
脚本演出シーシアス役…萬浪大輔

