朝、飼っているフレブルが発作で倒れて失禁し、少しの間意識がしっかりしなかった。


状況を受け入れるまで感情は動かず出来ることをしてやるしかなかった。


見守って、落ち着くまで側にいるそれしか出来ることがない。



しばらくして、落ち着いて意識も表情も元に戻ったが、しばらく落ち着いていたヘルニアも同時に再発したしようで痛みからか少し震えて毛布にくるまっていた。



足りるを知るとか耳にしたことがあるが、そんなものの重みは普段は感じることもなく、元気に走り回り、仕事の帰りを健気にも待っている愛犬はいつもそこに当たり前のようにいた。



症状が治り、隣で添い寝しながら、ふと家にこの子が来てからのことを頭が勝手に振り返り出して、さっきまで無に近い状態で状況対処していたのに、感情が動き出し居た堪れなくなって来た。



感謝してとか、足りるを知るとか、今あることがいかに素晴らしいかとか、何度も何度も聞いた言葉で、胸に激痛が走るような言葉ではなく、本当そえよねぇって有難いねぇって、そうしていかにも分かっているかのように受け止めていたその言葉の意味が今、何とも言えない気持ちと共に胸に突き刺さる。



多くを望んで生きてきたわけではない。



夫と子供たちと愛犬と、みんなが元気なら本当に幸せだと日々思って暮らしていた。


特別な日常も、特別な出来事も、何かを欲する欲もそこまで持たずに、朝起きて太陽を浴びれる幸せとか子供たちが元気に過ごしていることとか、そんなことに幸せを感じていたのに。



そんな日々が、今までとは比べ物にならないほどに大切に思えた。



カチャカチャと爪の音が聞こえるフローリングや、膝に座らせてと鳴く鳴き声や、留守番中あちこちにおしっこしてたことや、当たり前の様にそこにいる愛犬の命の限りを今年14歳になろうとしてるこの子の後ろに感じることがたまらなく怖くて、たまらなく辛くなる。




愛犬の優しさにどっぷりと甘えて、全てを受け入れてくれる愛犬の存在にどれだけ毎日支えられて助けられているか。



無償の愛の意味。

自然を受け入れながら生きる潔さ。


命の限りを受け入れている中でも、いつも目線は飼い主へ向けられる。



調子が悪くても、何度も何度もこちらを見てはわたしの顔を確認する。



自分が怖いからじゃなくてわたしの情緒を観察してる。



安心させてやりたいなって。

わたしが思う気持ちと全く同じものを持った目で。



こんなにもわたしを幸せにしてくれるこの子が与えてくれたものは、この子へ帰って行きます様に。と。

何度も思った。




出来る限り一緒に居たいというわたしのわがままに、寄り添ってくれる。



無理させても少しでも1日でも長く一緒に居たいというわたしのエゴを請け負ってくれる。



そんな優しいこの子に奇跡が起きます様に。