栗山です。


夏休みに入り、少しはまともに更新できるかと思っていたのですが、思いのほか時間を確保できず、またしても数週間ほど空けてしまいました。

お待ちいただいている方々には、本当に申し訳ありません。


さて、今回は「忠武侯 中編」と言うことで、いよいよ諸葛亮の実像に迫って行くこととなります。

前回述べた彼への批判、


・実は戦下手

・いわゆる「天下三分の計」による戦略目標を達していない

・北伐が成功しなかった

・人を見る目が無い

・「軍師」としての活躍に乏しい

・はっきり言って普通の人


今回はこれらの中からいくつかを踏まえた上で進めて行きたいと思います。


さて、彼の戦術指揮能力から人心収攬力まで実に多岐にわたる批判ですが、実はこれらの批判はいずれも彼を評価する上で最も重要な部分を見落としています。
それは、”統治能力”です。

劉備に仕えて以来戸籍の見直しなどを行い、入蜀後は参謀の法正らと共に『蜀科』を制定して法を整備、そしてそれらの法を厳格かつ公平に運用し、さらに南征を行うことによって国を富ませました。

主君劉備が東征に大失敗して破綻寸前となった国家をわずか数年で立て直し、かつ小国蜀漢にあって10万以上の精兵動員を可能にしたことはまさに驚異的と言えるでしょう。
彼は生涯五度にわたる北伐(魏討伐)を敢行しましたが、ついに国家が破綻することはありませんでした。


彼を評価する上で欠かせない要素の一つ、”統治能力”。

彼が一人の「官僚」としていかに優れた人物であったかが、まずはお解りいただけたと思います。

「『軍師』としての活躍に乏しい」と言う批判がありますが、そもそも「軍師」としての彼は『演義』によって創作された部分も多く、彼の本分は「官僚」だったのではないかと思います。

陳寿は『三国志・諸葛亮伝』において、「管仲・蕭何に匹敵する」と、あくまで古の名宰相(官僚)になぞらえた上で諸葛亮を絶賛しています(ちなみに管仲は斉の桓公に仕えた宰相で、蕭何は前漢の劉邦に仕えた宰相です)。



それでは、その他の批判も踏まえた上で更に彼の実像に迫っていきましょう。

次に見るのは、”戦略眼”です。

この点における彼を評価する上で必須とも言えるのがいわゆる「天下三分の計」なのですが、前述した「『天下三分の計』による戦略目標を達していない」と言う批判にも見られるように、彼の評価は必ずしも良いものばかりではありません。

そもそも「天下三分の計」とはいかなるものなのか、この中身を簡単に説明すると、劉備が荊州・益州を領有し、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備の”三国が鼎立”する状態を作り上げた上で、呉の孫権と共同して華北の覇者曹操に対抗しようと言う壮大な計画です。

実際劉備らはこの構想に沿って行動し、孫権を出し抜き荊州を、劉璋を騙して益州を領有するに至りました。

これにより「天下三分の計」は成るかに思われたのですが、その後荊州の統治を一任されていた関羽が呉軍に敗死して荊州の悉くを失陥。

「荊州の領有」「孫権との共同戦線」と言う二つの要素を同時に失い、計画は瞬く間に頓挫してしまいました。


確かに「戦略目標を達していない」と言う部分は否定できません。

しかしながら、この責任の大半は諸葛亮のものではありません。

何故なら、孫権との関係を破綻させ、荊州を失陥したそもそもの原因は関羽にあるからです。

関羽は病的とも言えるほど自尊心が高く、自分と対等な人間に対抗心をむき出しにすることがしばしばありました。

それは主君劉備の同盟者孫権も例外ではなく、彼は孫権からの使者を侮辱するなどあまりにも常識を逸脱した行動を繰り返し、次第に孫権を始めとする孫呉勢力から憎悪されるようになりました。

そしてついに、関羽は自ら魏討伐へ出陣した間隙を呉軍に衝かれ、荊州を失陥した上に敗死してしまいます。


以上の理由から、「天下三分の計」頓挫を直接諸葛亮の評価に結びつけるのは正しいとは言えません。

むしろ早くから荊州・益州に目をつけ、その領有実現に貢献したことを評価するべきでしょう。



「中編」はここまでです。

いつものことながら長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

次回「後編」で、諸葛亮の紹介・評価はひとまず終わらせたいと思います。


昨日の23時頃から書き始めて、気付いたら朝の5時でした。

メンテナンス中のため更新できなかったのでバックアップをとって保存しておいたのですが、昼に開いたらファイルの中身が跡形も無く消失していました。

現在21時30分、どうにか書き終えて安堵しております。

栗山です。

今日から7月です。これから更に暑くなってきそうですね。


検定等があったためなかなか資料を集められず、まる一ヶ月更新できずにおりました。

ようやく更新に漕ぎ着けて、ひとまず安堵しております。


さて、表題の通り本日紹介・評価する人物は、前回の劉備に引き続き『三国志』からの登場です。

姓を諸葛、名を亮、字を孔明。

「諸葛孔明」と言う呼称が一般的かと思われますが、前回の劉備が姓+名だったので、今回も敢えて姓+名で「諸葛亮」と表記させていただきます。

ちなみに日本などではよく「劉備玄徳」や「諸葛亮孔明」と言うように姓・名・字を繋げた呼び方をされることがありますが、三国時代の人物に限らず、本来名と字は繋げて呼ぶものではありません。

劉備の場合は「劉備」または「劉玄徳」、蒋介石(姓:蒋 名:中正 字:介石)の場合は「蒋中正」または「蒋介石」と呼ぶことになります。


話がそれてしまいますね。

しかし冒頭で敢えて人物の名前について言及したのには、実は上記の他にも理由があります。

名前と言うものは、その名前を持つ人をイメージさせる作用があります。

例えば芸能人の名前を聞いた時、ある程度知っている人の名前ならば真っ先にその人の顔が思い浮かぶと思います。

それと同様に、「諸葛亮」あるいは「諸葛孔明」と言う名前を聞いて、皆さんが連想するイメージは何でしょうか。


たぶん多くの人が、「天才軍師」「妖術使い」「理想のナンバー2」「ジャイアントロボの悪役」など様々に連想するのではないかと思います。

あながち間違いだとは思いませんし、否定するつもりもありません。

ただ、今回紹介する彼の人物像は、そう言った人物像と異なる部分が多々見受けられるので、いささか抵抗があるかも知れません。


現代において、彼の名は非常によく知られていますが、それは彼が亡くなった直後においても同じでした。

彼が事実上統治していた蜀のみならず、北方の魏、東方の呉、そしてその後興った西晋にまで彼の名声は鳴り響いていました。

特に西晋の時代には彼についての評論が盛んに行われ、この頃晋の臣下となっていた陳寿と言う人物によって、三国時代を紀伝体としてまとめた正史『三国志』が書かれています。

そして南北朝時代に南朝の臣であった裴松之と言う人物が『三国志』に注釈を付け、その後の明の時代にそれらを基にした小説『三国志演義』が羅貫中によって書かれます。

この『三国志演義』には、後世の講談などによる創作が非常に多く盛り込まれており、関羽や張飛と言った豪傑たちが存分に活躍する姿が書かれていることはもちろん、諸葛亮のような軍師は風を折ったり手紙で人を殺したり、挙句魏軍もろとも味方を焼殺しようとしたりと、とにかく人知を超えた活躍をしています。

『三国志演義』は日本でも吉川英治先生や立間祥介先生らによって翻訳され、諸葛亮はいわゆる「軍師の鑑」として、三国志と共に広く知られるに至りました。


このように「天才軍師」としての評価が定着しつつあった諸葛亮ですが、近年正史『三国志』を見直そうとする運動-いわゆる「帰正史運動」-が盛んになり、それまで「悪」として評価されることが一般的だった曹操ら魏の面々が”再評価”され始め、それに反比例する形でそれまで「善」とされてきた蜀漢の面々の能力・魅力などが疑問視されるようになりました。

無論、諸葛亮とて例外ではありません。

それまで『演義』などで主役級の活躍をしてきた彼に対する批判は、特に辛辣なものとなりました。

箇条書きでまとめると以下のようになります。


・実は戦下手

・いわゆる「天下三分の計」による戦略目標を達していない

・北伐が成功しなかった

・人を見る目が無い

・「軍師」としての活躍に乏しい

・はっきり言って普通の人


『演義』とのギャップがよほど絶望的だったようです。

確かに『演義』と比べてみると、同一人物なのか疑わしい箇所さえ見受けられます。


しかし、更により深く正史を調べていくうちに、今度はまた違った評価を見出すことができたのです。

言うなれば”再評価の再評価”です。

できれば今回で全てまとめたかったのですが、ここから更に続けるとなると驚異的な長さになってしまうおそれがあるので、今回は「前編」として、ひとまずお開きとさせていただきます。

次回は諸葛亮とは実際どのような人物だったのか、上記の批判等も踏まえつつ、核心に迫って行きたいと思います。

アオハルもとい、栗山春之丞です。

コロコロ変えてしまって申し訳ないのですが、今後こちらではこの名前を使用させていただきたいと思います。


思いのほか資料がまとまりにくく、20日近く更新できずにおりました。

ようやく第一弾です。


当ブログでは、基本的に「歴史そのもの」にスポットを当てていこうと考えておりますが、一つの「時代」を取り上げる日もあれば、一人の「人物」を取り上げる日もあると思います。

そのせいで時代が前後したりテーマが統一されなかったりと、見苦しい点が多々見受けられることが懸念されますが、その点は大目に見ていただけるとこちらとしても非常に助かります。

取り敢えず第一回である本日は後者、「人物」とさせていただきました。


記念すべき(?)第一弾として取り上げるのは、私栗山が最も馴染み深い時代である『三国志』の時代の英雄の一人、蜀漢昭烈皇帝こと劉備(字・玄徳)です。

小説『三国志演義』の主人公で「聖人君子」として名高い彼ですが、正史『三国志』を読む限り、決してそのような人物ではないと言うことがわかります。

そこで今回は、正史などをもとに彼の実像に迫っていきたいと思います。


私が彼を語る上で欠かせないことが四つあります。


一つ目として、三国時代の「裏切り者」と言えば真っ先に挙げられるのが呂布(丁原→董卓→王允→袁紹→張楊→独立→劉備→独立)ですが、この点においてはむしろ劉備のほうが上です。

『演義』においてだいぶごまかされているように、汚点とも言えるこの点ですが、劉備はおそらく、これが一番上手い人物だったのではないかと思います。

まず彼は、非常に危機察知能力が優れていました。

公孫サン(王+賛)が袁紹に敗れて形勢不利になったのを見るや預かった部隊ごとトンズラし、自分が加担した暗殺計画が曹操に発覚しそうになるや袁術討伐を口実に逃げ出し、袁紹軍が官渡で敗れて敗色が濃厚になるや荊州の劉表のもとへ落ち延びるなど、枚挙に暇がありません。

また、劉表が「自分の跡(荊州牧)を継いでほしい」と彼に頼んだときは、これを固辞しています。

「野心の無い人徳者」と解釈することもできますが、同様に「狡猾な保身家」と解釈することもできます。

劉備が去った直後の勢力は当然の如くいずれも窮地に陥り、最悪の場合大陸から姿を消しています。

同じ「裏切り者」でもほとんど動物的な勘で行動し、最終的に破滅を迎えてしまった呂布とは実に対象的です。


二つ目は、これも意外かも知れませんが、「用兵の上手さ」です。

『演義』などでは劉備自身の用兵能力に言及することが少なく、勝ち戦のほとんどは「関羽や張飛のおかげ」と思われがちです。

しかし実際のところは、劉備の指揮能力に依るところが大きいように思います。

陶謙の死後に徐州刺史となった際は、統治を始めたばかりで不安定な徐州の諸軍をまとめ上げ、袁術軍と互角に渡り合っています。

また、劉表のもとで博望に駐屯した際には、伏兵を用いて曹操軍の夏侯惇と于禁を撃破し、益州を手に入れたのちの漢中侵攻の際には陣頭指揮を執って魏の征西将軍夏侯淵を斬り、漢中を占領しています。

曹操や呂布、陸遜などの天才クラスとの戦いを除けばほとんど負けなしです。


三つ目は、「人を見る目」が優れていることです。

これについては、二つのエピソードを紹介したいと思います。

漢中占領後、魏と国境を接するこの要衝を誰が守るのか、と人々の間で議論になりました。

ほとんどの人は関羽が既に荊州の守備を受け持っていることから、序列で考えて「やはり張飛ではないか」と予想し、張飛自身もそう思い込んでいました。

しかし劉備はなんと、兵卒あがりでようやく一軍を任せられるようになった魏延を漢中太守に抜擢したのです。

当然、誰もが驚きました。

しかし魏延は漢中を過不足無く統治し、戦の際には常に先頭に立ち、その名に恥じることの無い活躍しました。

もう一つは、晩年彼が東征に失敗して永安に逃げ帰った時、見舞いに来た諸葛亮に言った言葉です。

劉備は諸葛亮が馬謖と言う人物を気に入り、ほとんど溺愛に近い接し方をしていることを知っていました。

そこで、

「馬謖は論が先行しすぎて実が伴わない男だ。彼に大きな仕事を任せるな」

と、諸葛亮に言いました。

しかしこの5年後、諸葛亮は第一次北伐の際にこの馬謖に要所の守備を任せ、これが原因で魏軍に大敗を喫します。

劉備は今際の時点で、既に馬謖の本質を見抜いていたことになります。


最後、四つ目です。

それは「人間的魅力」です。

これについては『演義』で充分に語られていると思われるかも知れません。

しかし『演義』で紹介される儒学的なそれとは本質的に異なります。

前述したとおり、彼の人生はまさに「裏切り」に次ぐ「裏切り」でした。

にも関わらず、彼は行く先々で歓待され、いずれの勢力からも「破格」の待遇を受けています。

また、彼は大陸を転々とする度に仲間を増やし、良くも悪くも個性の強い集団をしっかりとまとめ上げていました。

これらは彼が有能だと評価されていたと言うのも多分にあると思われますが、やはり単純な因子で割り切れないような、人を惹き付ける不思議な要素に恵まれていたからではないかと思います。


以上四点、簡単にまとめてみたつもりですが、それでも長いですね。

一通り列伝などを載せることも考えたのですが、信じられない長さになってしまったので諦めました。


いかがだったでしょうか。

今さら教えられなくても知っている人、『演義』とのギャップに驚いた人、長すぎて読むのを諦めてしまった人、様々だと思います。

諸葛亮らの補佐によって明確なヴィジョンを描き、長い長い放浪人生に終止符を打った彼ですが、最後は私情による東征を敢行し、弱小国家を破綻寸前にまで追い込んでしまいます。

非常に計算高く、侮れない彼ですが、結局最後には強烈な人間臭さを見せつけて、この世から去りました。


後世、彼の魅力は曲解あるいは歪曲され、儒学に都合のいいプロパガンダとして利用されることとなります。

最近でこそ再評価されつつある彼ですが、少し前までは「有能ではないがお人好し」と言う評価が一般的でした。

そんな誤解を少しでも解消したいと思い、第一弾として彼を取り上げてみました。


かつて野口英世は自分のことが書かれた伝記を読んで、「こんなものは人間じゃない」と、嘆いたそうです。

同じように劉備が、『演義』あるいは後世プロパガンダとして利用されている自分を見たら、何と言うでしょうか。


長々と申し訳ありません。

次回はいつになるか未定ですが、今度はもう少し簡潔にまとめたいと思います。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


彼について調べる上で、ウィキペディアを参照させていただきました。

彼の生涯が非常に簡潔にまとめられているので、是非ご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99


参考:ウィキペディア、『華陽国志』巻六・劉先主志、『三国志』蜀志巻二・先主伝

こんばんは。

海底人、もといアオハルです。

色々な偽名を考えたのですが、結局これしか思いつきませんでした。


ついに開設です。

「アオ果て」で歴史関係を語るのは、どうも気が退けてしまう為、専用のブログが欲しいと前々から密かに考えていたのです。

今後はこちらを「歴史関連」、あちらを「日常」と言う形で区別していきたいと思います。

何卒よろしくお願いいたします。


さて、ジャンル分けのところで”日本史”、”世界史”と、かなりの大風呂敷を広げてしまい、早くも後先が思いやられつつあります。

おそらく私の知識は、双方ともに相当の偏りがあるに違いありません。

なので当分の間は、どこにもリンクを貼らず、クローズにやっていこうと思います。


偶然にもここに辿り着いてしまった方は、「チラシの裏だな」と、どうか生暖かく見守ってやってください。