近年、慶事より弔事の知らせが
増えたなぁと感じる。
昨日、同僚から訃報のメールを
もらった。
彼の身内に関しての
状況は少し前に聞いていた。
葬儀の段取りで慌ただしい中
短いながら、彼の心が伝わるに十分な
内容だった。
ごく身内だけで葬儀をこの週末する様子。
「覚悟はしていたけど・・」と。
そう、いくら覚悟していても
いくらわかっていても。
どうにもできないような感慨を抱く
そういう体験が人生にはある。
慶事と弔事はその数だけでなく
どこか、年齢的に訃報というものに
対してこれまで以上の感慨を
抱くようになるのかもしれない。
そう、覚悟はしていたけども
という経験をしてから。
私は、悲しみから立ち直るとか
心を切り替えてとか
そういう類のものが
ほんと嘘くさく感じてしまう。
立ち直ったり、切り替える類のものでない
感情だからだ。
その想いも一緒に生きて行くのだと
感じる。
そして、訃報が増えて行くことも
それに敏感になることも
ひとつの生の理だろうなと
感じる。
妙な言い方も知れないが
自分の訃報というものに
少なからず近づいていることを
受け止めるのだと。
自分だけではなく
自分の大切な人びととの別れ
が来ること。
その日が来ることを考えても
仕方がない。
生を全うすることを考えて
日々精一杯生きればいいと
人生の達人と言われる人がいう。
死を含まない生についての
物言いが
どこか私は嫌いだ。
増えたなぁと感じる。
昨日、同僚から訃報のメールを
もらった。
彼の身内に関しての
状況は少し前に聞いていた。
葬儀の段取りで慌ただしい中
短いながら、彼の心が伝わるに十分な
内容だった。
ごく身内だけで葬儀をこの週末する様子。
「覚悟はしていたけど・・」と。
そう、いくら覚悟していても
いくらわかっていても。
どうにもできないような感慨を抱く
そういう体験が人生にはある。
慶事と弔事はその数だけでなく
どこか、年齢的に訃報というものに
対してこれまで以上の感慨を
抱くようになるのかもしれない。
そう、覚悟はしていたけども
という経験をしてから。
私は、悲しみから立ち直るとか
心を切り替えてとか
そういう類のものが
ほんと嘘くさく感じてしまう。
立ち直ったり、切り替える類のものでない
感情だからだ。
その想いも一緒に生きて行くのだと
感じる。
そして、訃報が増えて行くことも
それに敏感になることも
ひとつの生の理だろうなと
感じる。
妙な言い方も知れないが
自分の訃報というものに
少なからず近づいていることを
受け止めるのだと。
自分だけではなく
自分の大切な人びととの別れ
が来ること。
その日が来ることを考えても
仕方がない。
生を全うすることを考えて
日々精一杯生きればいいと
人生の達人と言われる人がいう。
死を含まない生についての
物言いが
どこか私は嫌いだ。

