理屈は矛盾している。


突き詰めれば突き詰めるほどに矛盾を帯びてくる。


カントのいう「純粋理性批判」

簡単に言えば理屈には限界があるということ。


それは紀元前のソクラテスの時代から、

哲学者の知っていた事だ。


受験の時にお世話になった塾の先生が言っていた。

「わかっている所と、わからない所を明確に把握しなさい」 と、

ならば明らかにしよう、それは「わからない」という事を。


最近ようやく全体が見えてきた。

結局、理屈だけではなにも知ることはできない。

いくら洗練された理屈をこねても、

心で感じなければ無意味だ。


人は理屈で物事を把握しているんじゃない。

理屈をこねた後、それを心で感じて、それではじめてそれを知るんだ。


だから、知るという事は大変なことです。


結局、言葉それ自体にはなんの意味もないのです。


プラトンの哲学にはよく「想起する」という言葉が使われます。

理屈によって心は想起されているんです。


そうだった、なんで気づかなかったんだろう。

僕はいつも言っていたのに、

目に見えているものはただの電磁波で、

肉体やもろもろの物質はたびたび真実を濁すって。


言語も数学も物質だったんだ。

そう、それは確かに「カタチあるもの」だ。

脳の中にあって、なかなかそれを把握しにくいが、

脳は物質なのだから、脳で把握しているものだって物質であるに決まっている。


人は脳で言語などを把握した時、瞬間的に心で想起する。

物質的な事象が瞬時に精神的なものとして把握されてしまうから、

まるで言葉それ自体も精神的なもののように思ってしまっていた。


実に精神的なものとは、人の心のみである。

感情や想いなどは、瞬時に脳の中で言語として表れるので、

感覚的に誤解しやすいが、心の中に言語があるわけではない。



ここまで書いた文章を読み返してみると、

やはりまだ足りない部分がある。

一体「こころ」とはなんなのか。


脳で把握しているもの、それが全て物質的なものと決め付けるのなら、

この理屈では「心は物質」となってしまうかもしれない。