このブログではよく頻繁に、最近交流が復活した父とのことが書かれますが、

じつは、ベースとなる我がK家の家族も、僕が病気になったことで大きく変わりました。


「病気になってよかったこと」として、友人や職場の人間などとの関係が、

より濃く、濃密なものになった――とは以前に書きましたが、その中でもいちばん濃度を増したのは、

やはり家族関係かもしれません。


正直、僕がこんなことになるようになる前は――家族はバラバラでした。


子供3人を女で一人で育て上げ、いまでも必死に家族を守ろうと働いているオフクロ。

家族に対して距離をおき、自分勝手に、自分のやりたい仕事をし、マイペースに道をひた進む僕。

夢に挫折し、心の傷を負ったままそこから立ち直ることができず、実家にひきこもる弟。

鉄砲玉のような性格で、あるとき突然妊娠、結婚。

いまはシングルマザーとなって一所懸命に働きながら子供を育てている妹。

ちいさなころからのさまざまな家庭環境の変化や、いろんなこと――があり、

ある程度の年齢になるころには、お互いがお互いを反面教師とするような部分も多少は

あったような気がするし、ゴタゴタだらけのウチの家族から一度自由になって、

また別の場所で、自分の理想とする生活をはじめたい・・・。

きょうだい3人ともにそういう思いがあったかどうかはわかりませんが、

大学生のころから、僕自身はは強くそう思うようになりました。


オフクロも、ここまで女でひとつで3人を育て上げてきました。

子供の独立はひとつの目標でもあったはずです。


そうして、はじめに僕が家族から自立しました。


「忙しい」「仕事が大変」常にそれが僕の常套句。

以来、たとえ正月であろうといっさい実家にも帰らず、好き勝手に遊び、もちろん仕事も死に物狂い

でやりました。本心をいえば、そのモチベーションの多くはじつは、家族からの自立、脱出だったのです。


もう何年も家族で食事をともにする、なんてことがないこともザラでした。

客観的にも、異様な家族だったと思います。

それが、たまに家族が顔をあわせるのはどういうときかというと・・・

僕の病気(これは定期的にありました。笑)、あとは家族のだれかが問題をおこしたとき

(妹の離婚や、弟の女性問題)など。

そんなことが、まあおこらないほうがよいのですが、ある時期をおいて起こる様になり、

いわゆるどこでも開かれる「家族会議」というものが開催されるようになりました。


そのころにはもうみんなよい大人です。

自立した自分の意見も持っています。


気がつくと、長男である自分の意見をオフクロもいつのまにか頼るようになっていました。


そうして、ようやくほんのちょっとは父親がいないこの家族においての家長としての自覚を持つように

なるのですが・・・じっさいはまだまだ。自分のことでまだまだ精一杯。

達者な意見を言うだけで、あとは当人に投げっぱなしのただの評論家。

これじゃあまだまだ長男、家長は失格です。


でも、ここ数年、僕からの声かけで毎年、オフクロの誕生日に食事を一緒にする。

しかも、ふだんよりもちょっと豪華な食事を。――という会を催すようになりました。


幼かったころから、銀座、六本木、赤坂・・・と、オフクロは本当においしい外食によく連れて行ってくれました。

いまその店を考えてみるとちょっとビックリするくらいの、すべて大人のお店です。

そのときの楽しい記憶があるので、そのお返しを僕なりにしたかったんですね。


そして、そのときはたしかオフクロと妹と一緒に自由が丘で寿司を食べて誕生日を祝っていたときのこと。

いまから3~4年ほど前になるでしょうか。そのときに、いつまでも今の店を続け、働き続けようとする

母に対して、僕は胸に秘めていたあることを思い切って切り出したのです。


「このさき、お袋が年をとったらさあ、俺がキチンと面倒みるから。

長男なんだから、それは責任を持ってキチンとしようと思ってるし。

だから、いまの店ももし厳しいようだったら・・・もう考えなよ」


いつかは言わなくてはならない、長男としての僕のせいいっぱいの言葉でした。


いつも勝気で男勝りのオフクロ。

オフクロは涙を浮かべたのを見たのは、本当にひさしぶりのことでした。


ところが、そんなエラそうなことを言っていた本人が、まさかの癌発病――。

でも僕は、ぜったいに病気で死ぬわけにはいかないのです。そんなことはあってはならない。

オフクロのためにも。


そして、おなじように必死でいま僕のことを支えてくれている家族のために。


病気になったことがきっかけで、家族のお互いの距離はずっと濃くなりました。

1年に1回連絡をする程度だった妹とも、いまではほぼ毎日のように連絡をとりあっています。

弟は、親への負担を考え、ついに7年間のひきこもりから脱出して、

ようやく働き始めて一人暮らしをはじめました。


そして僕自身は、なによりも家族というものの存在を、いまさらながらにその温かさを感じ、

接することができるようになりました。


これもひとつの病気からのメッセージだったのだと思います。


見失いかけていた、大切なものを取り戻すキッカケを作ってくれた病気に感謝です。


ちなみに・・・病葉(わくらば)とは、病気におかされて赤や黄色に変色した葉のこと。

オフクロが16才で歌手デビューを果たしたときのデビュー曲の歌いだしが「病葉を今日も浮かべて」でした。

その後、オフクロは僕の出産をキッカケに芸能界から引退することにまるのですが、

そこから今回のタイトルに拝借させたていただきました。