2012.11.29
忘れられない日。
朝、その日は寝坊して、母親が仕事行く直前に起きた。
家に一人になって、
ふと珍しく多かったLINEの通知を見てみたら
「ファンモン解散なんて信じられないよ!」
この字が目に入りました。
何が書いてあるのか一瞬意味不明で、
え?何?今日エイプリルフール?
って思ったのを思い出す。
けれど、震える手で見たファンモンブログには
http://ameblo.jp/fmb-blog/entry-11415569814.html
解散の事実が書いてありました。
とにかく混乱した。
布団でのた打ち回って泣いて、
泣き止んでも、体が何しても起き上がらなかった。
これは初めて言うことですが、
この発表の1ヶ月くらい前から、急に不安になり始めていたんです。
加藤さんもモンちゃんも34歳。
あれだけ激しい動きをしていて、
40を過ぎたあたりで何かあるんじゃないだろうか?ファンモン…引退とかしちゃったらどうしよう?
そしたら俺どうすればいいだろう?
ケミちゃんお寺の人だし、やっぱ跡継ぎとかも絡んできちゃうのかなあ。
そんなことを考えたときがありました。本当に。
けど矢沢永吉さんやサザンオールスターズみたいにいくつになってもアクティブに活動してるあーティストさんはいる。
いつまでもいるよね・・・ファンモン。
そう思っていました。
そんな矢先発売された「サヨナラじゃない」
少し違和感を感じていました。
ファンモンが表題曲に「サヨナラ」の言葉を使うなんて・・・
そう思い始めたころの解散発表でした。
その日は午後から大学の講義があったから、
授業行かなきゃ!と思って家を出てから、
一時間半かかる大学までどうやってきたか、いまだに記憶がありません。
仲のいい友達や後輩はみんな心配してくれていました。
「生きてた~!」って言ってくれました。
地元の友達の何人かにも、本気でショック死したんじゃないかと心配したって言われた。
表向きは元気に振舞っていても、
残り数ヶ月、全力で駆け抜けよう!と気持ちが定まったのは、1週間後でした。
それからWE AREのツアーが2公演あって、
横浜ライブは今絡んでる仲間たちのほとんどと絡むきっかけの場所になってすごく楽しかった。
親が偶然2,3両日家を空けることになり、横浜に泊まれたのがよかった。
反面、埼玉のライブは、悔いと自分への苛立ちしか残らないライブでした。
自分の欲と視野の狭さ、見切り発車な部分のせいで、
大切な仲間にかなり迷惑をかけ、失うところだった。
ライブ自体は楽しんだけど、
今振り返って見ると、本当に自分に対してすごく腹立たしいし、当時の自分をぶん殴りたくなるし、自分はBABYSって名乗る資格すらないとすごく悔やんだライブでした。
自責の念にかられる中で、突然訪れたバイト仲間の事故による急逝。
この時期が一番落ちていました。
就職活動もこの頃は停滞期でした。
自分がどういう方向性で生きていけばいいのかがわからなくなって、ただ放心状態になりながら虚空を眺めることしかできなくて、
ようやく立ち直っていく中で、自分の方向性についてすごく考えました。
自分ってどういう人間なんだろうって。
BABYSと出会うまで、俺は滑り出しはいいものの、結果的に敬遠されることの多い子供でした。
なんとなく言動や行動を(特に女子に)気持ち悪がられて。
俺自身、今もそんなとこあるけど今以上にKYで。自分のことでいっぱいいっぱいでした。
高校に入って初めて後輩ができて。
新入生歓迎会で部活勧誘でやったパフォーマンスで、後輩からもキモがられるようになりました。
先輩をつけて呼ばれた回数、たぶん1年間で40回もないと思う。
ほとんど呼び捨てか「D」。
そのうち、前にもブログに書いたけど、いじめを受けて同級生と絶縁状態になって。
けれど被害者の俺がますます部活動で居場所を失っていきました。
いつしか「先輩って呼ばれるのは人間的に認められた人で。俺はもう認められてもいないしこの地球上ではゴミにすら敬意を表さなきゃいけないくらいクズの極みなんだ。」
って思うようになっていた。
いつしかプライドも捨てていて、
後輩と普通の友達感覚で接していたほうが楽だと感じた日々。
今となって見れば、俺が年下の仲間に敬語じゃなくてタメ語使って欲しいと思うようになったのはこの時の反動なのかな。
そんな時に、深い穴の底でうずくまって声を殺して泣いていた自分に「大丈夫だよ。お前は一人じゃない!」と声をかけてくれてロープを投げ入れてくれた存在、それがファンモンだった。
ファンモンと出会って「もう一度だけ、希望を信じて頑張ってみようかな」と感じて必死に生きていました。
時にその必死さを顧問に全否定されたり、線路から飛び降りようと考えた日々があったりしたけれど、ファンモンが投げ入れてくれたロープに必死に食らいついた。
その結果、4月になり、予備校でようやく居場所を見つけた。
いつも絡んでくれる仲間たちがいたからこそ、進学する気すらなかった大学に挑戦して見ようと思って大学受験がんばって駒澤への切符をつかんだ。
そうして大学行って金銭に余裕ができ、ファンモンのライブに行ってそこでマサが声をかけてくれたから今があるんです。
そんな過去があるからやっぱりファンモンにはついていきたいから、だから自分が変わらなきゃと思って、いろいろ考えるようになって。
そんななかで偶然にあたったMステファンモンラストライブ。
あの近さと感動は今でも忘れられなくて、
そして東京ドームで解散したのでした。
ライブが終わった瞬間、
ああ・・・ここで俺の青春終わっちゃった・・・
と思ったのを今でも覚えている。
解散からソロ発表まで、正直空虚感しかなくて、
それだけにソロ発表のときは嬉しかった。
けれどその時に「出てくるの早くない?「未練がましいわ」「意味不明w」みたいなこと周囲からたくさん言われてつらくて、
母親に愚痴ったら「あんたそんなこと言えるほど周囲のこと考えてるの?」
という言葉が返ってきて、
しばらく自分について考えていました。
その時に感じた。
感じ方は十人十色、意見が割れるのはしょうがない、と。
それまでの俺は「人が好きなもんなんでそんな批判すんの?しかも俺が好きなの知ってるくせに!」
って感じだった。
けど、それは視野がせますぎるなって思って。
周囲にも目を向け始めた自分がいました。
そんななか、BABYSも分裂し始めて、
モンちゃんケミちゃんのファンを加藤さんが取ってる!って意見も出始めて
分裂に油が注がれたり、
加藤さんがその時悩んでる段階で、意識的にファンモンを遠ざけていた時期で、みんなそれが悲しかったんじゃないかなと思う。
今はこうしてソロも軌道に乗ってきているけど、
最近思うのは、
俺の身近でも、完全にBABYSの絡みから離れてしまった仲間がいたり、
CREWが嫌って意見も何人か見かけたし、
一度はCREWになるもやっぱり加藤さんを受け入れられない仲間がいたり、
忘れられない日。
朝、その日は寝坊して、母親が仕事行く直前に起きた。
家に一人になって、
ふと珍しく多かったLINEの通知を見てみたら
「ファンモン解散なんて信じられないよ!」
この字が目に入りました。
何が書いてあるのか一瞬意味不明で、
え?何?今日エイプリルフール?
って思ったのを思い出す。
けれど、震える手で見たファンモンブログには
http://ameblo.jp/fmb-blog/entry-11415569814.html
解散の事実が書いてありました。
とにかく混乱した。
布団でのた打ち回って泣いて、
泣き止んでも、体が何しても起き上がらなかった。
これは初めて言うことですが、
この発表の1ヶ月くらい前から、急に不安になり始めていたんです。
加藤さんもモンちゃんも34歳。
あれだけ激しい動きをしていて、
40を過ぎたあたりで何かあるんじゃないだろうか?ファンモン…引退とかしちゃったらどうしよう?
そしたら俺どうすればいいだろう?
ケミちゃんお寺の人だし、やっぱ跡継ぎとかも絡んできちゃうのかなあ。
そんなことを考えたときがありました。本当に。
けど矢沢永吉さんやサザンオールスターズみたいにいくつになってもアクティブに活動してるあーティストさんはいる。
いつまでもいるよね・・・ファンモン。
そう思っていました。
そんな矢先発売された「サヨナラじゃない」
少し違和感を感じていました。
ファンモンが表題曲に「サヨナラ」の言葉を使うなんて・・・
そう思い始めたころの解散発表でした。
その日は午後から大学の講義があったから、
授業行かなきゃ!と思って家を出てから、
一時間半かかる大学までどうやってきたか、いまだに記憶がありません。
仲のいい友達や後輩はみんな心配してくれていました。
「生きてた~!」って言ってくれました。
地元の友達の何人かにも、本気でショック死したんじゃないかと心配したって言われた。
表向きは元気に振舞っていても、
残り数ヶ月、全力で駆け抜けよう!と気持ちが定まったのは、1週間後でした。
それからWE AREのツアーが2公演あって、
横浜ライブは今絡んでる仲間たちのほとんどと絡むきっかけの場所になってすごく楽しかった。
親が偶然2,3両日家を空けることになり、横浜に泊まれたのがよかった。
反面、埼玉のライブは、悔いと自分への苛立ちしか残らないライブでした。
自分の欲と視野の狭さ、見切り発車な部分のせいで、
大切な仲間にかなり迷惑をかけ、失うところだった。
ライブ自体は楽しんだけど、
今振り返って見ると、本当に自分に対してすごく腹立たしいし、当時の自分をぶん殴りたくなるし、自分はBABYSって名乗る資格すらないとすごく悔やんだライブでした。
自責の念にかられる中で、突然訪れたバイト仲間の事故による急逝。
この時期が一番落ちていました。
就職活動もこの頃は停滞期でした。
自分がどういう方向性で生きていけばいいのかがわからなくなって、ただ放心状態になりながら虚空を眺めることしかできなくて、
ようやく立ち直っていく中で、自分の方向性についてすごく考えました。
自分ってどういう人間なんだろうって。
BABYSと出会うまで、俺は滑り出しはいいものの、結果的に敬遠されることの多い子供でした。
なんとなく言動や行動を(特に女子に)気持ち悪がられて。
俺自身、今もそんなとこあるけど今以上にKYで。自分のことでいっぱいいっぱいでした。
高校に入って初めて後輩ができて。
新入生歓迎会で部活勧誘でやったパフォーマンスで、後輩からもキモがられるようになりました。
先輩をつけて呼ばれた回数、たぶん1年間で40回もないと思う。
ほとんど呼び捨てか「D」。
そのうち、前にもブログに書いたけど、いじめを受けて同級生と絶縁状態になって。
けれど被害者の俺がますます部活動で居場所を失っていきました。
いつしか「先輩って呼ばれるのは人間的に認められた人で。俺はもう認められてもいないしこの地球上ではゴミにすら敬意を表さなきゃいけないくらいクズの極みなんだ。」
って思うようになっていた。
いつしかプライドも捨てていて、
後輩と普通の友達感覚で接していたほうが楽だと感じた日々。
今となって見れば、俺が年下の仲間に敬語じゃなくてタメ語使って欲しいと思うようになったのはこの時の反動なのかな。
そんな時に、深い穴の底でうずくまって声を殺して泣いていた自分に「大丈夫だよ。お前は一人じゃない!」と声をかけてくれてロープを投げ入れてくれた存在、それがファンモンだった。
ファンモンと出会って「もう一度だけ、希望を信じて頑張ってみようかな」と感じて必死に生きていました。
時にその必死さを顧問に全否定されたり、線路から飛び降りようと考えた日々があったりしたけれど、ファンモンが投げ入れてくれたロープに必死に食らいついた。
その結果、4月になり、予備校でようやく居場所を見つけた。
いつも絡んでくれる仲間たちがいたからこそ、進学する気すらなかった大学に挑戦して見ようと思って大学受験がんばって駒澤への切符をつかんだ。
そうして大学行って金銭に余裕ができ、ファンモンのライブに行ってそこでマサが声をかけてくれたから今があるんです。
そんな過去があるからやっぱりファンモンにはついていきたいから、だから自分が変わらなきゃと思って、いろいろ考えるようになって。
そんななかで偶然にあたったMステファンモンラストライブ。
あの近さと感動は今でも忘れられなくて、
そして東京ドームで解散したのでした。
ライブが終わった瞬間、
ああ・・・ここで俺の青春終わっちゃった・・・
と思ったのを今でも覚えている。
解散からソロ発表まで、正直空虚感しかなくて、
それだけにソロ発表のときは嬉しかった。
けれどその時に「出てくるの早くない?「未練がましいわ」「意味不明w」みたいなこと周囲からたくさん言われてつらくて、
母親に愚痴ったら「あんたそんなこと言えるほど周囲のこと考えてるの?」
という言葉が返ってきて、
しばらく自分について考えていました。
その時に感じた。
感じ方は十人十色、意見が割れるのはしょうがない、と。
それまでの俺は「人が好きなもんなんでそんな批判すんの?しかも俺が好きなの知ってるくせに!」
って感じだった。
けど、それは視野がせますぎるなって思って。
周囲にも目を向け始めた自分がいました。
そんななか、BABYSも分裂し始めて、
モンちゃんケミちゃんのファンを加藤さんが取ってる!って意見も出始めて
分裂に油が注がれたり、
加藤さんがその時悩んでる段階で、意識的にファンモンを遠ざけていた時期で、みんなそれが悲しかったんじゃないかなと思う。
今はこうしてソロも軌道に乗ってきているけど、
最近思うのは、
俺の身近でも、完全にBABYSの絡みから離れてしまった仲間がいたり、
CREWが嫌って意見も何人か見かけたし、
一度はCREWになるもやっぱり加藤さんを受け入れられない仲間がいたり、
正直、俺はソロ発表の時にすぐに移り変わった人間だから、
離れていった仲間に声がかけづらい。
ファンキー加藤どっぷりなお前に何がわかるって思われてそうで。
俺はみんな大切だから、失いたくないんです。
この先、そんな仲間たちが加藤さんを受け入れるまでに、何年もの時間がかかると思います。
みんなが笑えるようになった頃に、東京ドームが実現すればいいな。
それまで俺もCREWがみんな笑えるようにできる限りのことしたいです。
加藤さんが笑顔になれるならどれだけ嫌われたって、村八分にされたっていい。
今の俺の心情です。
あの日から2年。
また、俺自身も突っ走って生きます。
AIZU BABYS CHIBA BABYS CREW SHIGE
俺はみんな大切だから、失いたくないんです。
この先、そんな仲間たちが加藤さんを受け入れるまでに、何年もの時間がかかると思います。
みんなが笑えるようになった頃に、東京ドームが実現すればいいな。
それまで俺もCREWがみんな笑えるようにできる限りのことしたいです。
加藤さんが笑顔になれるならどれだけ嫌われたって、村八分にされたっていい。
今の俺の心情です。
あの日から2年。
また、俺自身も突っ走って生きます。
AIZU BABYS CHIBA BABYS CREW SHIGE