【読書感想】「狭き門」
「狭き門」 アンドレ・ジッド
フランス 1909年作品
言わずと知れた名作古典文学ですが、
ごく小さいころ、家の本棚(という名の玄関天井まで届く山積み)にあったような記憶があるので、タイトルだけはずっと知っていた作品です。
…そんなことはさておき。
読み終わったあと、頭をかかえてうなだれました。
一体…………なんでこんな悲しい話を書くんだよ…………
と……
主人公のジェロームと、その美しき従姉妹であるアリサは、相思相愛。
周囲も結婚に賛成でみんな応援してくれているのに、当のアリサだけがその愛を煮え切らない態度ではぐらかしてばかり。
彼女には断固とした信仰があり「我々が真に愛するのはただ、神様ひとりであるべきだ、神様の前へたどり着くには誰もがひとりで行かねばならないのだ」とひたすらにジェロームの求愛を拒む。
“自分は現世の幸せを得てはならない。
清廉に暮らし、いつか主が迎えにくるその時まで欲望を抑え自分を律するべきだ。
彼のことが好きだから、彼は素晴らしい人間だから、彼が神様のもとに行けるよう
自分は愛されてはいけない。”
……そうやって、彼女は自分を追い込んでいきます。
とても聡明な女の子だったのに。豊かな想像力を捨て、自分の魅力も捨て、
手紙をやりとりするばかりでジェロームには直接会おうとせず、ようやく会うことを了承したと思ったら、自分が肌身離さずにいたアメジストの十字架を「あなたの娘さんになる人にあげてください」と託す…(読んでうわあヒドイこと言うと絶句しました)
しまいには家族を捨て家を捨て…
最後にはひとり孤独に、遠くの療養院で病死します。
「神様、私こんなにがんばったのになぜ来てくださらないのですか…?」と嘆きながら。
主人公ジェロームは、ようやく居場所を探り当てたが、時すでに遅く、彼女は亡くなったあとでした、
すべてが終わった後。アリサの妹のジュリエットにジェロームは語ります。
「心から愛した人の思い出だけを抱いても人間は生きていけるんだよ…」と。
ジュリエットは声もなく泣き崩れるのでした…。
……なんなんですかこの悲しい話は!!!!!
どうしろっていうんですか!!(涙)
読み始めたばかりのころは、
アリサは信仰と恋愛の狭間に引き裂かれて悲しんでいるのだな…と思ったのですが
読み進めていくうちに、これはちょっと違うなと思いはじめました……。
これは「自分は愛されていい存在だ」ということを
ひたすらに頑なに認められず、また見つめようとしなかった女の子の悲劇です。
愛されることを恐れるあまり、本当の自分を受け入れてもらうことを拒否するあまり、自分というものを自ら葬ってしまった………。
それが、自分の愛する人を最も苦しめたということにすら気づかず。
いわば信仰や神様は、自分を偽るための口実でしかなかったんですね。
もう100年以上も前の作品ですが、こういう視点で見た場合、実に今でも生々しく通じる点ですよね…。
現代に生きる私たちも、愛されることに臆病なあまり、人を傷つけたりひいては自分を傷つけたりを繰り返しています。
そうやって失敗や内省を繰り返し、少しずつ自分というものを受け入れていく。
それは、今も昔も、ほんとに難しいことであるんだな…としみじみと感じました。
それにしても、キリスト教概念が根底にあるヨーロッパならではの話だなあと思う反面、当時の常識ってこんなこと書いて大丈夫だったのか??とも思いました。
信仰をこんな風に個人の問題として利用?して…。
そう思ったら、解説が実に分かりやすく明確にこの疑問について書いていてくれました。
ちょっと長いですが引用させていただきます。
出展はこちら→http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/03/006480.html
僕も愛と信仰の対立を描いている小説だと思って読んでいました。
しかし、なんだか腑に落ちない。
ジッドの友人である詩人のポール・クローデルの言葉 を読んで、その理由がわかってきたのです。
クローデルは、神の恩恵や死後の救済を期待しないアリサの一見禁欲的な信仰は、むしろ神に対する冒涜なんだ、こ れでは神が残忍な無言の拷問者になってしまうとジッドに対していっています。
確かに、この物語に出てくる神は特別です。249ページ、アリサはその日記の中で「わたしからすべてを取りあげた嫉妬深い神さま」と書いている。つまり与えることをしないで奪っていくだけの神なのです。
251ページの言葉は「あなたがわたしを絶望の淵に沈めたのは、この叫びを引きだすためだったのでしょうか?」まさに絶望に淵に人を追いつめていく神がいる。
253ページにある「ああ神よ、なんぢ我をみちびきてわが及びがたきほどの高き磐にのぼらせたまえ」。これは聖書の「詩編」からの引用ですが、元の 文を読むと、そんなにも神様は酷いものではありません。試練を与えるけれども許す部分ももっているのです。でも、アリサの手記にかかると試練を与えて処罰 する神しか出てこない。
どうもこれはキリスト教本来の神ではないのではないか。カトリック教徒であるクローデルは、そこを強く受けとめて批判の言葉を投げたのです。
日本人が、『狭き門』を愛と信仰の物語といわれて、すんなりと受けとめてしまったのは、やはりカトリック的な信仰がわかっていなかったからだと思います。
やはりそうなのですね。当時の感覚としては、神様をこんな風に書いてばちあたりな!ってところでしょうか。
でも描こうとしているものはこれか、と、とても腑に落ちました。
さらに、あとがきでは、1902年の初版に際して付された石川淳氏による解説が引用されていました。
人の世に幸せを求めない彼女は、何処にそれを求めようとするのか。何処にも求めようとしないのである。
そこにあるのは信仰とは別の、個人の抱える問題であることが考察されていました。
「カトリック的な信仰がわかってない日本人だからわからない」一方「日本人だからこそ信仰とは別なものを描いていることに気づく」というのが面白いですね。
読了したあとに、解説も読みましたが、こちらもとても興味深いというか「………えええ」とひっくり返りそうなものでした。
実はこの物語、ジッドの奥さんの日記を、ほぼそのまんま利用して書かれているとか…。
つまりアリサは奥さん自身。
奥さんの赤裸々な思いを公に表したあげく、彼女を作品の中で殺してしまった。
しかもジッドは少年愛者で、奥さんとは白い結婚生活をまっとうしたとか、夫婦でまるで息子のように可愛がっていた男の子に手を出しちゃって、夫婦仲に決定的な亀裂が生じてしまったとか……………
なんかとんでもない人生!!
い、いやはや……現実は小説より奇なりとはこういうことを言うんですね。
人間ってどうしてこんなに厄介なんでしょうね。
でも厄介じゃなかったらこういう作品も生まれないし、読んで頭をかかえるほど衝撃を受けたりもしないだろうし。
私は読みおわって大事な人がいっそう愛しくなったし、大事にしよう、愛してくれてありがとうと心から思ったし。
やっぱり、人間も文学も面白いんだよな、と。
先人の想いを垣間見られる、古典文学が私は大好きです。