あれから、28年 | はー子のブログ

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40歳パート主婦。妊活中。

1995年1月17日



阪神淡路大震災が起きた時、



私は神戸出身で、当時は小学5年生でした。




午前5時46分、

ゴォォ…

ドーン!!という音と共に尋常じゃない大きな揺れがきて飛び起きた。


暗闇の中、何が起こっているかさっぱり分からなかった。

でかいトラックがマンションに突っ込んできた?それとも隕石?



隣の部屋に寝ていた父が「地震や!!」叫んだのでそれでようやくこれは地震なのかとわかった。



あたりは真っ暗、電気もつかない。

父が「明るくなるまでそこで待機しとけ!」

というので明るくなるのをじっと待った。



外がすこし明るくなった頃、とりあえず家の中の状況がわかるようになってきたら部屋の中は色んなものが散乱しておりブラウン管の重いテレビなども落ちていて、ベッドの下にいなくて良かったと思った。


とりあえずリビングにでた。父と母がいた。食器が割れたりはしていたが、リビングで寝ていた父が近くにあった食器棚をとっさに押さえていたようだった。



その後、他の部屋にいた家族(兄、祖父)の安否確認をして、みんな、無事だとわかった。


マンションの下の階の人は、車で避難しているのが見えた。


父が「うちはここにいよう。とりあえず明るくなるまで待とう」


その言葉に従い明るくなるのを待った。


何も情報がないので状況がわからなかった。

神戸でこの揺れなら他の地域はもっとヤバい状況なんじゃないか?

そんな会話もしたと思う。



当日だったか翌日だったかは記憶が定かではないが、

うちでは電気が復旧した。


そしてテレビをつけた瞬間、絶句した。



まず、震源地が家から遠目で見えるくらいのかなり近いところだったことに驚き(これはラジオの情報だったかもしれないが)



そして、阪神高速が倒れている映像、長田区の火災、倒壊した家屋、、


これは現実に起こっていることなのか。



私の住んでいた区は比較的被害は少なかったが

隣の区から東側は悲惨だった。



数ヶ月後電車が開通した時に父に連れられ火災の酷かった長田に行ったが、焼け野原が広がっていて教科書でみる戦後の日本のようだった…。





ガスや水道はしばらく来なかった。(ガスは1ヶ月くらい水道はそれよりは早かった)

近所の井戸水を汲みにならんだり給水車も小学校に来ていると聞いたりしたけど、

うちはマンションの貯水槽にしばらく水があったので、地震後すぐにお風呂に水を貯めて生活用水に使った。

お風呂は入れないので電気でお湯をわかして身体を拭いたり、1週間に1回、車で遠くの健康ランドなどに父が連れて行ってくれた。


電気の復旧が、早かったのはとても助かった。

冷蔵庫にあったウインナーなどの食料を電気で調理して食べた。




本震は何が起こったかわからなかったけど大きな余震がくると本気で家が倒れて死ぬんじゃないかって怖かった。




うちは家が大丈夫だったし(ヒビははいったけど)怪我もなく家族も無事だったから、他の酷かった地域の人に比べたらこれで被災者なんて言えない

ほんの少しだけ住んでる場所が違うだけで全然被害が違う。

命があるだけで運が良い。


今ある日常もあたりまえではない。



また、いつ地震が起きるかはわからない。




今日の(1.17)は朝方まで起きていて、

5時46分にはテレビに映る東遊園地のつどいの前で黙祷しました。




とりあえずいまいちど防災グッズの見直しを始めようと思う。