隣に並んで、一つの舟に乗ったたこ焼きを分け合う。彼女は5個、俺は6個。毎週火曜20時前の、いつのまにか当たり前になった光景。

 5月の連休明け、学校の裏手にある小さな本屋に寄ったとき、ソースの匂いにつられて辿り着いたのが、このたこ焼き屋だった。部活終わりに買っておいたパンを齧っていたけれど、まだ腹は減っている。でも11個もいらないんだよな、と店の前に貼り出された「毎週火曜の19時から20時はサービスタイム!」の貼り紙を見て悩んでいた。そこへ、ねぇ半分こしない?と声を掛けてきたのが彼女だった。

 どっかで見た顔だなと思っていたが、翌日思い出した。部活仲間の彼女だった。部活終わりのグラウンド整備中、その脇を歩いて行く彼女に向かって、部活仲間はいつも嬉しそうに手を振っていた。翌週また同じようにたこ焼き屋に行くと、彼女はすでにそこにいて、あぁちょうど良かった、と微笑んだ。

 たこ焼きを食べながらどうでもいい話をする。部活仲間の話もした。特に何も、嫌がる様子も嬉しそうな様子もなかった。あいつと別れたんだって?と話を振ったときも、昨日別れたのにもう知ってるんだ、と笑っていた。今日えらく凹んでたからさ、と言う俺に彼女は、でも彼は私じゃないもっと素敵な彼女ができると思うよ、と当たり前の口調で言ったのは、1学期の期末テストが始まる前のことだ。

 夏休みが終わってからもまた、火曜はいつものようにたこ焼きを食べた。苗字で呼び合うようになっただけで、学校で話をすることもない。部活仲間には新しい彼女が出来た。彼には、毎週火曜の話は何一つしていないが、する必要もないだろうと思う。彼女もまたそんなことを誰かに話している様子はなかった。

 彼女の噂をちらほらと聞くようになった。聞くと言うよりも耳に入るようになっただけだが、入学してからの半年ほぼ彼氏が途切れたことがないとか、今度は3年の先輩が告白したらしいとか、そんなことだ。彼女も俺に関する噂を聞いたんだけど、と言うことがあった。今度の試合でスタメンなんだって?と言われたときは驚いたが、後から聞いた話ではその頃はうちの部長と付き合っていたようだった。

 秋時雨の降った火曜日、部活内容が屋内トレーニングからミーティングに変わって、18時半に終わった。ファーストフードに行くけどお前もどう?と誘われ、用事があるからと咄嗟に断っていた。真っ直ぐ店に向かうには早過ぎるので、一旦教室に戻って、荷物を減らすため、持って帰ろうとしていた数学のノートを机にしまった。教室の窓から、さっき誘ってくれた数人が校門を出て行こうとする姿が見えた。約束してるわけでもないんだがな、と教室に来るまでに何度も繰り返した疑問が、また頭を過る。自分の席につき、まぁいいやと突っ伏して少し眠ることにした。

 目を覚ましたときは20時を回っていた。携帯のアラームを掛けていなかったせいか、と焦りながら、慌ててたこ焼き屋へと向かった。近くまで来たけれどソースの匂いはしなかった。ビニール傘を握る左手首の腕時計は、もう20時27分を指している。あぁもう、と思いながらも店の前に行くと、彼女が傘を肩に掛けて携帯をいじりながら立っていた。肩で息をする俺に気付き、彼女は携帯を閉じ、そんなに焦んなくてもまた来週食べれば良いじゃん、と笑い掛ける。それとも、そんなにたこ焼き食べたかったの?とからかうように言う彼女に俺は思わず、違う、と言った。何が違うのか、俺自身にも分からない。言葉を続けようとして、気付いた。彼女は待ってた。約束も何もしていないけれど、待っていた。メアドも携帯番号も知らない。彼氏でも彼女でもない。でも来ると思って、待っていてくれたんだ。俺があのとき断ったときと同じように、うまく表現したり分類したりは出来ないだろうけど、きっとどこかで。

「会いたいと思ってたんだ、ずっと、君に、ここで、きっと君と同じように」

 彼の左腕が後ろから回されている。私の右腕は、彼の立てた右膝の上にある。彼は校舎の壁にもたれ、私はその彼の前に両足を伸ばして座っている。すぅすぅという彼の小さな寝息を聞きながら、私はぼんやりと考え事をする。

 同級生から彼と付き合っているの?と訊かれたとき、私はすぐに否定をした。そんな話は一度もしたことがなかった。でも嫌いじゃないんでしょ?その質問がなぜ逆接の接続詞一つで出て来るのかが分からないけれど、次にそう尋ねられ肯定をすると、今度はなぜ付き合わないの?と訊かれる。なぜと言われても説明のしようがないと伝えると、告白を促された。それこそ、1か月に何度も繰り返している不毛なやり取り。なぜ私と彼の付き合っていない現状を彼女たちがじれったく思うのか、私には分からない。余計なお世話だと思いもするけれど、最近はもう慣れた。

 自分の右肩越しに後ろを見ると、彼の頭がかくんと落ちた。その反動か、ぱっと顔を上げ、半分寝惚けた表情のまま私を見やる。何?寝起きの少し掠れた声で彼は私に問い掛ける。何でもないよ、よく寝てるなと思っただけ。ふうん。彼は大して興味もなさそうに、きっと本当に興味なんかないんだろうけど相槌を打ち、上半身を私の背中に預けてきた。伸ばしていた左膝を立て、両腕を私に巻きつける。とくんとくんと微かに途絶えがちに、彼の鼓動が聞こえる気がする。

 お前さぁ。まだ掠れの残る低い声で、彼が囁く。今日俺ん家来れる?大丈夫な日だっけ?頭の中で予定を確認し、大丈夫だよと答える。そっか、そりゃ良かった。顔は見えないけれど、口調に少し違和感を覚えた。どうかした?と自分の足を引き寄せながら、彼に言葉だけを振る。ん、最近毎日だなと思っただけだよ。そう言って、彼は鼻で笑った。やっぱ止めとくか、試合近いしな、お互い。うん、そうだね。私はスニーカーの靴ひもを結び直す。

 一緒にいると安心する。お互いに対してだけ素直になれる。それ以上のものなんて存在しない。都合のいい時に都合のいいように甘え、慰める。そういう繋がりでいたい。だから好きとか嫌いとかっていう恋愛感情は抑え込む。彼といるために。彼が心地良いと思えるために。彼が私を必要としてくれるように。それが私の存在意義。彼に必要とされる以上に素晴らしいものなんて、この世にはない。

 経済学部の、僕が所属するゼミの担当教授が「為替を読めない学生がいた」と嘆いている。この間は授業中に堂々と、教科書の上に雑誌を広げていた女子がいたらしい。何にせよ昔はそんなことなかったのに、と繰り返される現代若者への批判を、そうですねという応用の利く相槌で躱しながら、グラスに入ったお湯割りを飲み干す。さも時間を気にしていますというように腕時計を見、明日は1限があるので、と申し訳なさそうな笑みを浮かべて、僕は席を立った。

 帰宅途中、駅の改札内にある小さな書店で目当ての文芸誌を買った。今月号には、先日の新人賞を受賞した作品が掲載されているのだ。ホームで電車を待ちながら、ぱらぱらとページをめくる。あった。手を止めたそのページには、はっきりと見覚えのある名前が刻まれていた。

 高校の後輩だった彼女は、夢を、僕にだけそっと教えてくれた。将来小説家になる。それを生業として生きていくのはまさに夢のような話だと思ったが、僕は、何か書けたら見せてよ、と微笑み返した。それっきりその夢については離さなかった。そして、数か月前僕の耳に入ったのは、彼女が自殺したというニュースだった。彼女との間に思い出らしい思い出は別になく、通夜にも葬式にも行くのが躊躇われていた僕のもとに、大型郵便が届いた。消印は彼女がこの世を去った日。中身は、直筆の小説だった。

 目の前を通り過ぎる快速電車の風圧でめくれそうになるページを抑えながら、僕は喉元が熱くなるのを感じた。彼女の小説を初めて読んだ時も、添削しながらPCに打ち込んだ時も、受賞の通知が届いた時も感じなかったこの想いを、彼女ならどんな風に表現しただろう。

 彼女の声が聴きたくてたまらなくなった。

好きと自分が言うことが許せない。

その言葉は君が言うべき。

頬を桜色にして。

くちびるを舐めて。

視線を狼狽させながら。

ああ、なんて一所懸命なんだと思いながら。

君の申し出を笑顔で避けよう。


だけど君は何も言わない。

知っているんだ、恥じらいを感じていることも。

だから待っているんだと。

それすらも言うつもりはないのだけれど。


近寄り難いのかと、ほんの少し隙を見せる。

君はそれを知っても躊躇うのか。

それとも気付かないのか。


いずれにしても、馬鹿だな。


焦燥感に駆られて。

手応えがどうにも得られなくて。

あれこれ手を尽くして。

ああ、もうどうしたらいいのかと思いながら。

君を見ている自分は何だ。


挑発するのも、口説いてみるのも。

そんな手練手管は君が見せるもの。

だから早く君から言葉を。

それすら君に肩透かしを喰らう。


いずれにしても、馬鹿なのは自分か。


自己嫌悪。

自問自答。

自己陶酔。

自己完結。

出口は何処だ。


駆け引きなんて10万年早い。

諸々をすっ飛ばして、いきなり結論に向かうのは。

そんなに愚かなことなのか。

この気持ちの証明方法なんざ、解法の糸口すら掴めない。


悶々。

悶える。

何故だろう。

何故と思うことすら何故だろう。

解れた思考回路を、紡ぎ直すのは君だろう。


態勢を立て直して。

まだもう少しなら待ってあげる。

君の言葉。

期待することばかり。


理想。

妄想。

空想。

想像。

現実。


君の想いが伝わるように。

祈ってあげる。

自分のために。

君に幸あれ。

惚れたら負け、というのは普遍的な事実なのだろう。

恋愛に勝ち負けなんてないよ、というのも間違ってはいない。

じゃあどちらが正しいのか。

双方が誤っているのか。

それともその時々によって状況は変わるのか。

その問いかけには、誰も答えてくれない。


涙が伝う、君の頬に。

なんて奇麗なんだろうと、落ちる滴を見ながら思った。

唇についた水を舐め、君を見つめる。

身体を動かさず、静かに睫毛だけを震わす君の姿。

愛しい。

微笑もうとしたけれど表情は緩められない。

今こうする以外、涙を止める術を思い付かない。


思い出す、走馬灯のように。

君と出会ったことも、共に過ごしたことも。

死を前にして抗うように、記憶もまた駄々を捏ねる。

記憶中枢にはあるけれど、感情にはもう容量がない。

溢れて来る感情が、しょっぱい水になって行く。


君もまたそうなのだろうか。

今この場で互いが別れることに、涙を零しているのだろうか。

もしそうならば、充分だ。

お前の負けだと、他人に嘲笑されようとも。

これ以上はないのだから。


ありがとう。

愛したひと。

きっとこれからも愛するひと。

この想いのまま、別離を迎えられることが、何より嬉しい。


君の笑顔が好きだった。

だから笑って終わりにしたいと思っていたけれど。

ごめん。

笑顔を作っても涙は止まりそうにない。

君の笑顔なんて見たら、また君にしがみついてしまう。

だから今は、そのまま。

声も出さずに、静かに、眠るように、そっと。


君のこの時間を。

君とこの時間を。

分かち合えただけで充分だと。

それがすべてだと。

伝えられなくて、だから良かった。